藤田胸太郎
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藤田 胸太郎(ふじた きょうたろう[1] / むねたろう[2]、1867年4月4日(慶應3年2月30日[1][3])- 1927年(昭和2年)2月21日[1][2][4])は、明治後期から昭和初期の実業家・政治家。衆議院議員、山梨県会議長、山梨県北都留郡上野原町長。
経歴
[編集]甲斐国都留郡松留村[1](山梨県[2]北都留郡巌村[4][5]、上野原町[1]を経て現上野原市松留)で、藤田重兵衛の四男として生まれる[5]。
1903年(明治36年)山梨県会議員に選出され3期在任し、同参事会員も務め、1911年(明治44年)県会議長に就任した[1][2][4][5]。その後、上野原町を務めた[1][2][4]。
1924年(大正13年)5月、第15回衆議院議員総選挙で山梨県第5区から立憲政友会所属で出馬して当選[1][5]。中央線電化促進などに尽力したが[1]、議員在任中の1927年2月、甲府の旅館で急逝し[5][6]、衆議院議員に1期在任した[2][4]。
実業界では、北都留郡甲斐絹同業組合長、都留電燈取締役、同社長、上野原町耕地整理組合長、南北都留甲斐絹同業組合連合会組合長、特許防腐剤合資会社代表社員、都留鉄道運輸取締役などを務めた[1][2][3][4]。
国政選挙歴
[編集]- 第13回衆議院議員総選挙(山梨県郡部、1917年4月、無所属)次点落選[7]
- 第15回衆議院議員総選挙(山梨県第5区、1924年5月、立憲政友会)当選[8]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第15回』衆議院事務局、1926年。
- 川手秀一編『甲州古今人物辞書』山梨協会本部、1938年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 山梨日日新聞社編『山梨百科事典 創刊120周年記念版』山梨日日新聞社、1992年。