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田村虎蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
田村 虎蔵
(たむら とらぞう)
田村虎蔵(1910年頃)
基本情報
出生名 田村 虎蔵
出身地 鳥取県岩美郡馬場村(現・岩美町馬場)
死没 (1943-11-07) 1943年11月7日(70歳没)
学歴 東京音楽学校
職業 音楽教育家,作曲家

田村 虎蔵(たむら とらぞう、1873年5月24日 - 1943年11月7日)は、日本の音楽教育家、作曲家。

経歴

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鳥取県岩美郡馬場村(現・岩美町馬場)に田村重蔵の6人兄弟の末子として出生[1][2]。体が非常に強健であったことから虎蔵と命名されたとされる[2]

蒲生小学校、鳥取高等小学校(現・鳥取市立久松小学校)を経て[2]、1892年鳥取県尋常師範学校を卒業[1]。卒業後は因幡高等小学校(現・鳥取市立久松小学校)に赴任するが[1]、同年9月に東京音楽学校に進学[1]。1895年同校を卒業[1]兵庫県尋常師範学校を経て[1]、1899年東京高等師範学校兼東京音楽学校助教諭[1]

言文一致唱歌を提唱し[1]納所弁次郎らと「幼年唱歌」(1900年)「尋常小学唱歌」などを編集。1922年6月、文部省より海外留学を命ぜられ、西洋に渡り音楽教育事情を研究[2]。1924年2月10日帰国[2]。帰国後は、東京市音楽担当視学となる[2]弟子に堀内敬三がいる[要出典]1938年4月に行われた第6回日本音楽コンクールなどで審査員を務めた[3]

田村虎藏先生をたたえる碑 筑土八幡神社石段登り左側、金太郎楽譜あり
田村虎蔵先生顕彰碑 東京都新宿区筑土八幡神社入口

年表

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栄典

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1900年(明治33年)「金太郎」「だいこくさま」
1901年(明治34年)「花咲爺」「大寒小寒」
1911年(明治44年)「うらしまたろう」(浦島太郎[6]
1932年(昭和7年)発行『新訂尋常小学唱歌-第二学年用』文部省唱歌より[7]
1933年(昭和8年)発行『尋常小学唱歌(二)』文部省唱歌より[8]
青葉の笛」「東郷大将」「大野市立 有終西小学校校歌」「汽車 山陽線唱歌」「汽車 東海道唱歌」

成立年未詳

著作など

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  • 『唱歌科教授法』同文館 1908年 六学年小学校各科教授全書
  • 『音楽教育の思潮と研究』田村虎蔵先生記念刊行会編 目黒書店 1933年
  • 『名作唱歌選集』故田村虎蔵先生記念会編 音楽之友社 1950年

伝記

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  • 丸山忠璋『言文一致唱歌の創始者田村虎蔵の生涯』音楽之友社 1998年

史蹟

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  • 田村虎蔵先生之生地 - 鳥取県岩美郡岩美町馬場。碑と像が建てられている。
  • 田村虎蔵旧居跡 - 東京都新宿区筑土八幡町4-24 区指定史蹟。由緒の書かれた案内板がある。
  • 田村虎蔵先生をたたえる碑 - 東京都新宿区筑土八幡町2-1 筑土八幡神社入口。金太郎の一節と由緒の書かれた碑が建てられている。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 田村 虎蔵 (たむら とらぞう)”. www.pref.tottori.lg.jp. 鳥取県. 2023年2月26日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 岩美町史912-919頁(岩美町教育委員会、1968年)
  3. ^ 日比谷公会堂でコンクール第一夜『大阪毎日新聞』(昭和13年4月10日)『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p58 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  4. ^ 田村虎蔵”. www6.plala.or.jp. 2024年12月1日閲覧。
  5. ^ 『官報』第3501号「叙任及辞令」1924年4月28日。
  6. ^ 文部省唱歌『尋常小学唱歌 第二学年用』より”. 「d-score」 (2020年6月24日). 2020年6月24日閲覧。
  7. ^ 文部省唱歌『新訂尋常小学唱歌-第二学年用』より”. 「d-score」 (2020年6月24日). 2020年6月24日閲覧。
  8. ^ 文部省唱歌『尋常小学唱歌 第二学年用』より”. 「d-score」 (2020年6月24日). 2020年6月24日閲覧。
  9. ^ 気仙沼市立大島小学校HP”. 気仙沼市立大島小学校 (2020年6月24日). 2020年6月24日閲覧。
  10. ^ 古川市立古川第一小学校百年史編集委員会 編『古川第一小学校百年のあゆみ』古川第一小学校百年祭実行委員会、1973年11月3日、85頁。 

関連項目

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外部リンク

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