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沼田多稼蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
沼田 多稼蔵
1955年
生誕 1892年(明治25年)4月18日
日本の旗 日本 広島県
死没 1961年(昭和36年)11月15日
所属組織 日本陸軍
軍歴 1912年(明治45年) - 1945年(昭和20年)
最終階級 陸軍中将
除隊後 防衛庁顧問
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1945年、降伏に関連した英印軍との交渉のため、ラングーンを訪れた沼田(左)。向かって右は同行した海軍少将・中堂観恵

沼田 多稼蔵(ぬまだ たかぞう、1892年明治25年)4月18日 - 1961年昭和36年)11月15日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

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広島県出身。漢学者・沼田良蔵の二男として生まれる。広島陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第3連隊付となる。1919年(大正8年)11月、陸軍大学校(31期)を卒業。

1920年(大正9年)4月、参謀本部勤務となり、関東軍幕僚付、参謀本部員(内国戦史課)、陸軍省軍務局課員などを経てイタリア駐在となり、1927年(昭和2年)7月、歩兵少佐に昇進。1928年(昭和3年)8月、整備局課員(動員課)となり、1931年(昭和6年)8月、歩兵中佐に進級。1932年(昭和7年)12月、関東軍参謀(特務部)に就任し、イタリア大使館イタリア語版武官を経て、1935年(昭和10年)8月、歩兵大佐に昇進した。1936年(昭和11年)8月、参謀本部付となり、日中戦争歩兵第39連隊長として出征し徐州会戦などに参加。1938年(昭和13年)6月、第11軍参謀副長に転じ、1938年(昭和13年)7月、陸軍少将に進級した。

1939年(昭和14年)1月、第11軍参謀長に着任し、企画院第1部長に転じ、第1部長任期中に総力戦研究所構想案を練ったとされている。1941年(昭和16年)3月、陸軍中将に進んだ。同年4月、第3軍参謀長に就任し満州に赴任。1942年(昭和17年)8月、第12師団長に親補された。1943年(昭和18年)10月、第2方面軍参謀長となり、昭和19年5月、ビアク島を視察中に米軍の上陸に遭遇し、臨時に防戦の指揮を執ったが、玉砕寸前に同島を脱出した。南方軍総参謀長として終戦を迎えた。1947年(昭和22年)11月、戦犯容疑により巣鴨プリズンに収容された。1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受け[1]、同年4月、橘丸事件で重労働7年の判決が言い渡されたが、1950年(昭和25年)12月に仮釈放された。

1955年(昭和30年)9月24日、防衛庁顧問に就任している[2]

栄典

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位階
勲章等

親族

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著書

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  • 『日露陸戦新史』兵書出版社、1924年3月。 NCID BA31802317全国書誌番号:43010900 
  • 『日露陸戦新史』渡辺錠太郎序(訂正5版)、偕行社、1925年3月。 NCID BN12148241 
  • 『日露陸戦新史』岩波書店岩波新書 78〉、1940年11月。 NCID BN01811773全国書誌番号:46045757 全国書誌番号:61003149 
  • 『日露陸戦新史』芙蓉書房、1980年6月。 NCID BN09629514全国書誌番号:80030272 
  • 『日露陸戦新史』岩波書店〈岩波新書 特装版 赤-78〉、1982年3月。 NCID BN02535693全国書誌番号:82028458 
  • 『日露陸戦新史』(新装版)芙蓉書房出版〈芙蓉軍事記録リバイバル〉、2004年11月。ISBN 9784829503461NCID BA69983087全国書誌番号:20715835 

脚注

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  1. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十三年一月三十一日 仮指定者」210頁。
  2. ^ 朝日新聞 昭和30年(1955年) 9月24日
  3. ^ 『官報』第167号「叙任及辞令」1913年2月21日。
  4. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

外部リンク

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