杉山新樹
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すぎやま しんじゅ 杉山 新樹 | |
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生誕 | 1898年4月23日 |
死没 | 1974年2月16日(75歳没) |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京美術学校 |
職業 | 画家 |
肩書き | 愛知学芸大学(現・愛知教育大学)教授 |
栄誉 | 勲三等瑞宝章(1967年) |
杉山 新樹(すぎやま しんじゅ、1898年4月23日 - 1974年2月16日)は、日本の画家、愛知学芸大学(現・愛知教育大学)教授。教育者として西三河美術界に功績を残した。
経歴
[編集]愛知県額田郡矢作町(現・岡崎市矢作町字西河原)に生まれる[1]。愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)在学中、留年した尾崎士郎と同級になった[2][3]。1916年(大正5年)、同校卒業[4]。
1923年(大正12年)、東京美術学校卒業。岡崎に戻り、1925年(大正14年)に近藤孝太郎、山本鍬太郎ら[5]とともに「我々の会」を作り、洋画の展覧会を開き新人の育成に努める。1944年(昭和19年)まで春台会に所属した。同年、旺元会に出品[6]。また、岡崎市立高等女学校(現・愛知県立岡崎北高等学校)や愛知県岡崎師範学校で教鞭をとった。
戦争が終わった1945年(昭和20年)の暮れ、岡崎では文化協会設立の世話人会がもたれ、杉山は竹内京治、榊原金之助、天野末治、足立一平らと共に案を練ることとなった[7]。1946年(昭和21年)2月3日、岡崎文化協会が創立される[8]。そのほか北川民次と民主美術協会を創立した。岡崎美術協会副会長に就任。
1949年(昭和24年)5月31日、愛知学芸大学設置に伴い、同大学の教授に就任。1960年(昭和35年)、同大学岡崎主事に就任。同年8月、マニラで開かれた国際美術教育会議に日本代表として出席した。1962年(昭和37年)、定年退職。
1967年(昭和42年)に渡欧、功績により勲三等瑞宝章を受章した。著書に『子供の造形』『西洋美術のふるさと』などがある。
脚注
[編集]- ^ 『全岡崎知名人士録』, p. 57.
- ^ 『日本現代文學全集 72』, p. 431.
- ^ 『私の履歴書 第19集』 1963, p. 145.
- ^ 『岡高同窓会名簿 1986』 愛知県立岡崎高等学校同窓会長、1986年10月1日、17頁。
- ^ 山本鍬太郎(1899 - 1964)は、愛知県坂崎村久保田(現・幸田町)出身の画家。戦後は学生演劇、映画教育の発展に努めた。
- ^ a b 『新編 岡崎市史 総集編 20』, p. 208.
- ^ 福岡寿一編 編『近藤孝太郎』東海タイムズ社、1973年11月1日、61頁。
- ^ 『新編 岡崎市史 総集編 20』, p. 99.