大橋忠一
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大橋 忠一 おおはし ちゅういち | |
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生年月日 | 1893年12月8日 |
出生地 | 日本・岐阜県 |
没年月日 | 1975年12月14日(82歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法科大学英法科卒業 |
前職 |
満洲国外交部次長 外務次官 |
所属政党 | 自由民主党 |
称号 |
正四位 勲二等旭日重光章 法学士(東京帝国大学・旧制) |
大橋 忠一(おおはし ちゅういち、1893年12月8日[1] – 1975年12月14日)は、日本の外交官、政治家。正四位勲二等。満洲国外交部次長[2]、外務次官、自由民主党所属の衆議院議員(3期)、カンボジア大使を歴任した。
来歴
[編集]岐阜県出身[3]。旧制第一高等学校を経て、1918年東京帝国大学英法科卒[3]。外務省に入り、書記官、参事官、領事などを務め[3]、満洲国国務院外交部次長、満洲国参議府参議、蒙古聯合自治政府最高顧問を歴任した[3]。1940年から翌年まで外務次官となり[3]、在職中、日独伊三国同盟が締結される。
戦後は公職追放となり、追放解除後の1952年の第25回衆議院議員総選挙に郷里の岐阜1区で無所属で出馬し初当選[4]。以来3期務める。所属会派は無所属倶楽部[5]→同友会[6]→無所属→無所属倶楽部[7]→小会派クラブ[7]→自由党[8]→無所属[9]→小会派クラブ[9]→日本民主党[10]→自由民主党[11]。1958年の第28回衆議院議員総選挙で落選し[4]、政界を引退した。落選後は1959年から1961年まで駐カンボジア大使を務めた。
1975年12月14日死去、82歳。死没日をもって正五位から正四位に叙される[13]。墓所は多磨霊園。
栄典
[編集]著書
[編集]脚注
[編集]- ^ 『日本人名大辞典』 講談社
- ^ 次官(事務次官)相当。
- ^ a b c d e 『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』136頁。
- ^ a b 『朝日選挙大観』505頁。
- ^ 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』612頁。
- ^ 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』619頁。
- ^ a b 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』623頁。
- ^ 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』636頁。
- ^ a b 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』638頁。
- ^ 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』639頁。
- ^ 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』657頁。
- ^ 『官報』号外第48号2頁 昭和41年4月30日号
- ^ 『官報』第14696号16-18頁 昭和50年12月27日号
- ^ 『官報』第3068号「敍任及辞令・二」1937年3月27日。
参考文献
[編集]- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』大蔵省印刷局、1990年。
- 朝日新聞選挙本部編『朝日選挙大観』朝日新聞社、1997年。
関連項目
[編集]官職 | ||
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先代 谷正之 |
外務次官 1940年 |
次代 天羽英二 |