二条持基
表示
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この記事の正確性に疑問が呈されています。 問題箇所に信頼できる情報源を示して、記事の改善にご協力ください。議論はWikipedia:進行中の荒らし行為/長期/シェーラを参照してください。(2015年4月) |
「摂家二條家墓基礎調査報告書」同志社大学歴史資料館 | |
時代 | 室町時代中期 |
生誕 | 明徳元年/元中7年(1390年) |
死没 | 文安2年11月3日(1445年12月1日) |
改名 | 基教(初名) |
別名 | 後福照院 |
官位 | 従一位、摂政、関白、太政大臣 |
主君 | 称光天皇→後花園天皇 |
氏族 | 二条家 |
父母 |
父:二条師嗣、母:東坊城長綱の娘 養父:二条満基 |
兄弟 | 満基、持基 |
妻 | 石橋殿(石橋満博の姉妹) |
子 |
持通、尊応 養子:隆快 |
テンプレートを表示 |
二条 持基(にじょう もちもと)は、室町時代中期の公卿・歌人。
生涯
[編集]父は関白の二条師嗣で次男[1]。母は参議の東坊城長綱の娘[1]。初名は基教(もとのり)という[1]。応永17年(1410年)に兄の満基が急死したため、その養子となって家督を継いだ[1]。応永31年(1424年)、称光天皇の関白となる[1]。正長元年(1428年)に称光天皇が崩御し、後花園天皇が即位すると摂政に転じた[1]。永享5年(1433年)に関白となる[1]。官位は従一位太政大臣になった[1]。
書道や歌道にも優れ、京都郊外の岩倉の別邸で歌会を何度も催している[1]。『新続古今和歌集』には持基の詠歌が収められている[1]。
文安2年(1445年)11月3日に死去。享年56[1]。家督は子の持通が継いだ。
経歴
[編集]※ 日付=旧暦
- 応永16年(1409年)、正五位下左近衛少将
- 応永17年(1410年)、従四位下、正四位下備前権介権中納言、従三位
- 応永18年(1411年)、正三位権大納言
- 応永19年(1412年)、従二位
- 応永21年(1414年)、正二位
- 応永26年(1419年)、左近衛大将内大臣。翌年に両職とも辞職。
- 応永27年(1420年)、左大臣。応永32年(1425年)に辞職。
- 応永28年(1421年)、従一位
- 応永31年(1424年)、関白。正長元年(1428年)に辞職。
- 応永33年(1427年)、左大臣。永享元年(1429年)に辞職。
- 正長元年(1428年)、摂政。永享4年(1432年)に辞職。
- 永享4年(1432年)、摂政。太政大臣。翌年に辞職。
- 永享5年(1433年)、関白。死去まで。
系譜
[編集]- 父:二条師嗣(1356-1400)
- 母:参議東坊城長綱の娘
- 養父:二条満基(1383-1411)
- 妻:石橋殿 - 石橋信乗の姉妹
- 男子:二条持通(1416-1493)
- 生母不明の子女
- 男子:尊応
- 養子
- 男子:隆快
脚注
[編集]飛鳥時代 | |
---|---|
奈良時代 | |
平安時代 |
|
鎌倉時代 |
|
南北朝時代 | |
室町時代 |
|
戦国時代 | |
安土桃山時代 | |
江戸時代 |
|
カテゴリ |
二条家当主 | |
---|---|
宗家 | |
分家 |
平安時代 | |||||
---|---|---|---|---|---|
鎌倉時代 |
| ||||
南北朝時代 |
| ||||
室町時代 |
| ||||
戦国時代 | |||||
安土桃山時代 | |||||
江戸時代 |
| ||||
皇親太政大臣 |
| ||||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
人臣太政大臣 |
|