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「多忙な人間はダメである」…ローマの哲人・セネカがそう語った「納得の理由」

自分自身が重職にあって多忙をきわめる日々をやむなく送っているセネカの、これが心からの切実な願望であったかと思うと、この文章を読むたびにわたしは胸が痛くなるような気がする。多忙な人間ほどよく生きることが稀だと、これぞ忙しい日々の中でセネカ自身が絶えず自分に言いきかせていた警告であったにちがいないのだ。そして、時間を十分に持っていた賢者に対し、民衆に人生の時の多くを奪われている人間とは、これまたセネカ自身の痛切な自己認識であったろう。

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わが国でも、あの高度経済成長期のあいだ、スケジュール表を分きざみの予定で埋め、忙しく会議や面会や打合せや出張やらに動きまわる人ほど偉いとする風潮があった。また現代では実際に、下で働く者よりも、社長とか局長とか、エグゼクティヴといわれる人ほど多忙な社会の仕組になっているのだが、多忙こそ自分の重要さのしるしと見做す人が多かったのも事実だ。だが、多忙の中にありながらその一方で、このセネカのように、閑暇をこれほどまでに熱烈に求め、恋い焦がれた人がどれだけあったか。

多忙であるということ、それはそれぞれ性質を異にするさまざまな事柄、多くはただちに解決や決定を要する事柄が、次から次へ迫ってくるということだ。人は良心的であろうとすればするほど、そのつど全集中力をこめて物事の本質を理解しようと努め、判断し、決定しなければならない。そんなことが日に二十件も三十件も重なれば、一日の終りにはぼうっとなって、自分はいったい今日一日何をしたのかさえ思いだせぬくらいだろう。

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