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ルートヴィヒ・ウーラント

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ルートヴィヒ・ウーラント
人物情報
生誕 (1787-04-26) 1787年4月26日
ヴュルテンベルク公国テュービンゲン
死没 1862年11月13日(1862-11-13)(75歳没)
ヴュルテンベルク王国テュービンゲン
学問
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ヨハン・ルートヴィヒ・ウーラント (Johann Ludwig Uhland 1787年4月26日1862年11月13日)は、ドイツ文献学者法律家政治家詩人

来歴

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ウーラントはヴュルテンベルク公国テュービンゲンで誕生した[1]エバーハルト・カール大学テュービンゲンで法学やギリシア古典、中世ドイツ文学を学んだ。法学士を取得後、パリに赴き中世フランス文学を研究した。帰国後の1812年から1814年にかけてヴュルテンベルク王国の首都シュトゥットガルトで弁護士として勤めた[1]。またウーラントは自由主義者として活躍した[2]。この頃からヴュルテンベルクで民主的議会の開会を強く主張した。1819年から1827年までテュービンゲンの議会、1829年までシュトゥットガルトの議会で代議員を勤めた[1]。その後ウーラントは1848年にフランクフルトアムマインで開催されたフランクフルト国民議会の代議員に選出されて参集したが、最終的に自由主義的ドイツ統一の夢は潰えた。

シュヴァーベン土着に培われたウーラントは若き日より中世にあこがれを抱いていた。中世ドイツのフォークロア、古民謡、おとぎ話、伝説、民間伝承の研究に没頭しながら『Zur Geschichte der Freischiessen』、『Der Mythus von Thôr nach nordischen Quellen』、『Sagenforschungen』など多数の学術書を刊行した。中世ドイツの詩人ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデを研究して1822年に刊行した学術書『Walther von der Vogelweide, ein altdeutscher Dichter』は名高い。

ウーラントはヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ、フリードリヒ・フォン・シラーの影響が濃く、在学中から詩作を始めた[1]。題材は中世ドイツの伝説やフォークロアから取られたものが多い。『Lied der Nibelungen』、『Musenalmanach』、『Die Kapelle』といった詩作品を発表し、特に『Vaterländische Gedichte』はよく知られている[1]。詩作品は非常に牧歌的であり故郷に深く根ざした素朴な抒情詩・リート(多くの作曲家によって作曲された)やバラーデは人々に愛された。バラ-デ、「とくに「盲目の王」Der blinde König、「楽人の呪い」Des Sängers Fluchなどは傑作として知られている」[3]。また2作の戯曲『Ernst, Herzog von Schwaben』、『Ludwig der Baier』も残したが、「これは彼の本領ではない」[4]

「第一次大戦中(ドイツ人兵士の間で)最も好まれてうたわれ」、様々の替え歌を産んだ歌がウーラントの≫Ich hatt’ einen Kameraden≪(「戦友ありき」)である[5]。これは『少年の魔法の角笛』にも収録された「起床太鼓」を踏まえている[6]

ウーラントは1829年から1833年まで母校エバーハルト・カール大学テュービンゲンで中世ドイツ文学の教鞭を執ったが、政治的見解の相違もあり職を辞した[1]。故郷ヴュルテンベルク王国テュービンゲンで没した。

刊行

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  • Walther von der Vogelweide, ein altdeutscher Dichter (1822)
  • Der Mythus von Thôr nach nordischen Quellen (1836)
  • Sagenforschungen (1836)

脚注

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  1. ^ a b c d e f Ludwig Uhland
  2. ^ UHLAND LUDWIG
  3. ^ 岡田朝雄・リンケ珠子『ドイツ文学案内 増補改訂版』朝日出版社 2000 (ISBN 4-255-00040-9)、158頁。
  4. ^ 手塚富雄神品芳夫『増補 ドイツ文学案内』岩波書店 1993 (= 岩波文庫別冊3) (ISBN 4-00-350003-2) 、195頁。
  5. ^ 早崎守俊は、アルフレート・デーブリーン『ベルリン・アレクサンダー広場』において主人公がビールを飲んで歌ったこの歌を次のように訳している(河出書房新社、2012年、101頁)。一節目:「おれにゃ相棒がひとりいた、あんないいやつありゃしない。いくさの太鼓が鳴りだすと、おれと並んで足並みあわせ、オイッチニイ、オイッチニイ。足並みあわせ、オイッチニイ、オイッチニイ」。二節目:「弾(たま)が一発飛んできた、おれにあたるか、きさまにあたるか、弾はあいつをぶっとばす、おれの足下(そっか)にごろりとあいつ、おれのからだのかけらのように。おれのからだのかけらのように」。最後の節:「あいつはなおも手を出さんとす、おれは弾丸(たま)をこめていたところ。おまえの手を引きあげることはできないが、生涯相棒であってくれ、よき相棒で――あってくれ」。
  6. ^ 武田昭『歴史的にみた――ドイツ民謡』東洋出版 1979年1月、272-275、284-288頁。- 志田麓・飯島智子・宮原朗『歌のつばさ 第1集(民謡編)』(Deutsche Gesänge 1)第三書房 1993年第4版 ISBN 4-8086-1243-7. 20頁に詞、21頁にSilcherによる、元来スイス民謡であった曲への和声づけ、33-34頁に飯島による解説と注。

外部リンク

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