コンテンツにスキップ

マーク・メロ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マーク・メロ
マーク・メロの画像
Marc Mero in 2013
プロフィール
リングネーム "マーベラス" マーク・メロ
"ワイルドマン" マーク・メロ
ジョニー・B・バッド
本名 マーク・メロ
身長 183cm - 185cm
体重 102kg - 107kg
誕生日 (1960-07-09) 1960年7月9日(64歳)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ニューヨーク州の旗 ニューヨーク州
エリー郡バッファロー
スポーツ歴 ボクシング
トレーナー マレンコ・ファミリー
デビュー 1991年
引退 2005年
テンプレートを表示

マーク・メロMarc Mero1960年7月9日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラーニューヨーク州バッファロー出身。生年は1965年ともされる[1]

ジョニー・B・バッドJohnny B. Badd)のリングネームでも知られ、1990年代WCWWWFにおいて、主にヒールのポジションで活動した[1][2]WWEディーヴァの元祖とされるセイブルは、彼の元妻である。

来歴

[編集]

プロレス転向前はボクシングで活躍し、ニューヨーク州ゴールデングローブを3回獲得[2]レーザー・ラドックのスパーリング・パートナーを務めたこともあるという[1]1990年プロレスラー転向を決意してタンパマレンコ・ファミリーのもとでトレーニングを積む。1991年フロリダのインディー団体でデビュー。後にアンダーカードジョバー要員としてWCWに出場。

WCW時代

[編集]

1991年5月[1]、当時WCWのブッカーだったダスティ・ローデスのアイデアにより、1950年代に活躍した黒人ロックンローラーリトル・リチャードを模したギミックジョニー・B・バッドJohnny B. Badd)に変身。このリングネームは同じくロックンロールの創始者であるチャック・ベリーの楽曲『ジョニー・B・グッド』から取られたが、メロ自身は黒人ではない。

テディ・ロングマネージャーにショーマン派の中堅ヒールとして台頭し、1991年下期はイエロー・ドッグことブライアン・ピルマンと抗争、ピルマンの保持するWCWライトヘビー級王座にも挑戦した[3]。以後、カクタス・ジャックスタニング・スティーブ・オースチンとの抗争を経て、1994年9月18日にロード・スティーブン・リーガルからWCW世界TV王座を奪取。以降も1995年10月29日にダイヤモンド・ダラス・ペイジ1996年2月18日にはレックス・ルガーを破り、同王座を通算3回獲得した[4]

日本には1995年4月、当時WCWと提携していた新日本プロレスに来日しており、ジュニアヘビー級戦線にて飯塚高史エル・サムライから勝利を収めている[1]

WWF時代

[編集]
Marc Mero in 1996

1996年3月、"ワイルドマン" マーク・メロ"Wildman" Marc Mero)のリングネームでWWFに移籍。ボクシング・スタイルのベビーフェイスとして、妻のセイブルことレナ・メロをマネージャーにハンター・ハースト・ヘルムスリーゴールダストと抗争を展開。同年9月23日にはトーナメントの決勝にてファルーク・アサードを破り、前王者アーメッド・ジョンソンの欠場で空位となっていたWWFインターコンチネンタル王座の新王者となった[5][6]

しかし、女性マネージャーのセイブルが人気を集める一方で彼自身はブレイクすることができず、セイブルの人気に嫉妬したというアングルのもと、1998年より再びヒールに転向。"マーベラス" マーク・メロ"Marvalous" Marc Mero)とリングネームを改め、黒人女子レスラーのジャクリーンと合体。彼女とセイブルの抗争にも介入した。また、ボクシングのバックボーンを買われ、同年6月末より行われたシュートファイティング・トーナメント "WWF Brawl for All" にも出場。1回戦でスティーブ・ブラックマンに敗れた後、ブラックマンの負傷で2回戦に進出するもブラッドショーに敗退した[7]

セミリタイア後

[編集]

1999年のWWF離脱後にセミリタイアし、リングネームをジョニー・B・バッドに戻してインディー団体に単発参戦。2001年末には妻のレナ・メロと共に、WCW崩壊後にジミー・ハートらが旗揚げしたXWFのTVテーピングに参加し、カート・ヘニングノーマン・スマイリーミスター・ジョーンズバフ・バグウェルと対戦[8][9]2004年11月から2005年1月にかけてはTNAに出場していた[2]

私生活においては2004年にレナと離婚し、2009年に別の女性と再婚[10]。また、2007年クリス・ベノワが死去した際には、MSNBCなどの取材で自身の過去の薬物体験を語り、WWEステロイド禍を非難した[11]。引退後はフロリダ州オーランドに居住してフィットネス・クラブ "Marc Mero Body Slam Training Institute" を運営する一方、薬物乱用の危険性を訴えた講演活動を行っている。

得意技

[編集]
相手をファイヤーマンズキャリーに抱え上げ、相手の脚を振ってダイヤモンド・カッターに移行する。"Total Knock Out"の略称であり、この技の考案者である。
シューティング・スター・プレスと同型。WWFでの "マーベラス" マーク・メロ時代はマーベロシティMarvelocity)という技名だった。
雪崩式フランケンシュタイナーと同型。
ムーンサルト・プレスと同型。
左フック。右のジャブルシールLucile)という技名で、いずれもジョニー・B・バッド時代のギミックだったリトル・リチャードの曲名から付けられている[12]

獲得タイトル

[編集]
WCW
WWF

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e 『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P66(2002年、日本スポーツ出版社
  2. ^ a b c Wrestler Profiles: Marc Mero”. Online World of Wrestling. 2011年8月24日閲覧。
  3. ^ WCW Yearly Results 1991”. The History of WWE. 2011年8月24日閲覧。
  4. ^ a b WCW World Television Title”. Wrestling-Titles.com. 2011年8月24日閲覧。
  5. ^ a b History of the WWE Intercontinental Championship”. WWE.com. 2011年8月24日閲覧。
  6. ^ a b WWF-WWE Intercontinental Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2011年8月24日閲覧。
  7. ^ Wrestling Information Archive - Other WWE Title Tournaments”. Wrestling Information Archive. 2011年8月24日閲覧。
  8. ^ Matches von Johnny B. Badd 1998-2004”. Cagematch. 2011年8月25日閲覧。
  9. ^ XWF working without a deal”. SLAM! Wrestling: November 14, 2001. 2011年8月24日閲覧。
  10. ^ Daily wrestling news & gossip”. The Sun: July 20, 2009. 2011年8月24日閲覧。
  11. ^ Ex-wrestler boils about WWE pressure-cooker”. Orlando Sentinel: June 28, 2007. 2011年8月25日閲覧。
  12. ^ Johnny B. Badd”. Wrestlingdata.com. 2018年8月30日閲覧。

外部リンク

[編集]