セルゲイ・イワノフ
セルゲイ・イワノフ Сергей Иванов | |
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2016年 | |
生年月日 | 1953年1月31日(71歳) |
出生地 |
ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 レニングラード |
出身校 | レニングラード大学 |
前職 |
ソビエト連邦国家保安委員会諜報員 ロシア連邦大統領府長官 |
現職 | 大統領特別代表(自然保護活動・環境問題・交通運輸担当) |
所属政党 |
ソビエト連邦共産党 統一ロシア |
称号 | 予備役大将 |
配偶者 | イリーナ・イワノヴァ |
子女 | 2人 |
在任期間 | 2011年12月22日 - 2016年8月12日 |
大統領 |
ドミートリー・メドヴェージェフ ウラジーミル・プーチン |
内閣 |
ミハイル・カシヤノフ内閣 第1次ミハイル・フラトコフ内閣 第2次ミハイル・フラトコフ内閣 |
在任期間 | 2001年3月28日 - 2007年2月15日 |
大統領 | ウラジーミル・プーチン |
在任期間 | 1999年11月15日 - 2001年3月28日 |
大統領 |
ボリス・エリツィン ウラジーミル・プーチン |
セルゲイ・ボリソヴィチ・イワノフ(ロシア語: Серге́й Бори́сович Ивано́в, ラテン文字転写: Sergei Borisovich Ivanov, 1953年1月31日 - )は、ロシア連邦の政治家。ロシア最初の文民出身の国防相として知られ、ウラジーミル・プーチン政権で第4代ロシア連邦国防相を務めた。他にロシア連邦大統領府長官、第9代ロシア連邦安全保障会議書記、ロシア連邦第一副首相、ロシア連邦副首相を歴任している。
経歴
[編集]出自
[編集]1953年1月31日にソビエト連邦のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)に誕生する。1975年にレニングラード大学文学部を卒業。同期にウラジーミル・プーチンがおり、プーチンとイワノフは同郷でレニングラード大学同窓でもある。
ソビエト連邦国家保安委員会
[編集]1976年にソビエト連邦国家保安委員会ミンスク高等課程を修了し、KGBレニングラード局で勤務。その後KGB第1総局(対外諜報)に移り、第101学校を卒業。1981年に2等書記官として駐ロンドンソビエト大使館に勤務したが、1983年にスパイ容疑で国外追放された。その他にKGBではフィンランド・ケニアで対外諜報活動を行っていた。
ソ連崩壊後はKGBの解体に伴い、ロシア対外情報庁に移り、プーチンがロシア連邦保安庁長官に就任すると、1998年8月にFSB次官/分析・予測・戦略計画部長に登用された。
政治家
[編集]以後イワノフはプーチンと共に出世した。プーチンが1999年8月にロシア連邦首相に就任すると、同年11月にロシア連邦安全保障会議書記に就任する。プーチンがロシア連邦大統領に就任すると、2001年3月にロシア連邦国防相に任命される。ソ連時代も含めてトロツキーを除き、ロシアでは陸相・海相・国防相は現役の軍人が務めていたが、イワノフは史上初の文民のロシア連邦国防相である(KGB職員は軍人だが、2000年11月に予備役に編入されていた)。
ロシア連邦国防相としてはロシア連邦軍にこれまでの徴兵制を改めて志願制を導入し、人員の削減による質的向上を図ろうとした。また巡航ミサイルを中心とする戦略兵器の削減に意欲的であるとされる。また、他に北朝鮮が核兵器保有宣言をしたことに対して、イワノフは2005年2月13日にドイツのミュンヘンで開かれた閣僚会議でロシア連邦を代表して演説し、北朝鮮の選択は誤りであると批判した。同時に北朝鮮に核拡散防止条約に留まり、6カ国協議に戻るように求めた。
その後2005年11月14日から副首相(安全保障担当)を兼務する。2007年2月15日には第一副首相(専任)に昇格し、軍事産業だけで無く航空産業・ナノテクノロジー・交通といった民間産業の育成を担当した。
イワノフはロシア連邦大統領補佐官のヴィクトル・イワノフとともに、プーチンの側近中の側近であり、同格となったドミートリー・メドヴェージェフ第一副首相とともにプーチンの大統領任期が切れた後の有力な後継候補と目されていたが、2007年12月10日にプーチンは後継の大統領候補に同郷であるメドヴェージェフを指名し、下馬評では旧KGB人脈のイワノフを予測する声が比較的多く見られた。
2008年5月7日にドミートリー・メドヴェージェフ政権が発足し、5月8日にウラジーミル・プーチンが首相に就任した後もプーチンによって副首相に指名され、内閣に留任した。その後2011年12月22日にメドヴェージェフ大統領によってロシア連邦下院議員に転身したセルゲイ・ナルイシキンの後継として大統領府長官に任命され[1]、2016年8月12日に退任した。イワノフの一身上の都合と説明されたが、実質的な解任とも報じられた[2]。同時に大統領令によって自然保護活動・環境問題・交通運輸担当の大統領特別代表に任命された[3]。
北方領土訪問
[編集]北方領土を4度訪問している。2014年9月24日に択捉島を訪問し、イトゥルップ空港を視察した。日本政府は菅義偉内閣官房長官が記者会見で遺憾の意を表明した[4] が、イワノフは9月25日に記者団に対して、「これは儀式的な踊りのようだ。私がそこへ行くと遺憾を耳にする... そして私はまたそこへ行く」と語った[5]。
人物
[編集]- 妻帯で2児を有する。英語・スウェーデン語を話す。余暇は釣りと散歩で過ごし、原語で探偵小説を読むのを好む。
- 小泉内閣発足以前に日の出の勢いを誇っていた鈴木宗男はイワノフをプーチン政権最大のキーパーソンと位置付けており、早い段階で接触を図っていた。
- ソ連時代からの政治エリートでありながら、10代の頃には当時禁制であったビートルズのファンであったことを2003年にポール・マッカートニーが赤の広場で行ったコンサートの際にインタビューで答え、このコンサートにもプーチン大統領と伴に来場した。
- ソビエト連邦国家保安委員会諜報員の出身で、いわゆる「シロヴィキ」人脈に連なる政治家の1人とされる[6][7]。
- 軍人としての現在の階級は予備役大将である。
勲章
[編集]二等「祖国に対する貢献に対する」勲章・「国家の国防能力と安全の強化への大きな個人的貢献に対する」勲章・カザフスタンの「ドストゥイク」(友好)勲章を受章。
脚注・出典
[編集]- ^ 「ロシア大統領、イワノフ副首相を大統領府長官に任命=タス通信」 ロイター通信の記事。2011年12月22日掲載・閲覧。
- ^ “ロシア大統領府長官更迭=影響排除か、後任に知日派”. 時事通信. (2016年8月12日) 2016年8月12日閲覧。
- ^ “ロシア大統領府の新長官に日本語が堪能な専門家が起用”. スプートニク (通信社). (2016年8月12日) 2016年8月13日閲覧。
- ^ ロシア大統領府長官エトロフ訪問 日本政府は遺憾の意 ロシアの声
- ^ イワノフ大統領府長官 クリル訪問に関する日本の声明は「儀式的な踊り」のようだ”. ロシアの声 (2014年9月24日). 2014年9月25日閲覧。 “
- ^ 『ロシアの政策決定 - 諸勢力と過程』 (財団法人・日本国際問題研究所、平成22年3月発行) 「総論 ロシアの対外政策の決定-関与する諸勢力」(横手慎二)10ページ。
- ^ 『「ポスト・プーチン」のロシア経済』 (三菱UFJリサーチ&コンサルティング調査部、2007年8月発行)19ページ。
公職 | ||
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先代 セルゲイ・ナルイシキン ナルイシキンは2011年12月20日付で離職、以後は副長官のウラジスラフ・スルコフが代行。 |
ロシア連邦大統領府長官 2011年 - 2016年 |
次代 アントン・ヴァイノ |
先代 ドミートリー・メドヴェージェフ |
ロシア連邦副首相 アレクサンドル・ジューコフ、アレクセイ・クドリン、イーゴリ・セーチン、セルゲイ・ソビャーニンと共同 2008年 - 2011年 |
次代 ドミートリー・ロゴージン |
先代 ドミートリー・メドヴェージェフ |
ロシア連邦第一副首相 ドミートリー・メドヴェージェフと共同 2007年 - 2008年 |
次代 ヴィクトル・ズプコフ イーゴリ・シュワロフ |
先代 ドミートリー・メドヴェージェフ |
ロシア連邦副首相 アレクサンドル・ジューコフと共同 2005年 - 2007年 |
次代 アレクサンドル・ジューコフ セルゲイ・ナルイシキン |
先代 イーゴリ・セルゲーエフ |
ロシア連邦国防相 第4代:2001年 - 2007年 |
次代 アナトーリー・セルジュコフ |
先代 ウラジーミル・プーチン |
ロシア連邦安全保障会議書記 第9代:1999年 - 2001年 |
次代 ウラジーミル・ルシャイロ |