エマニュエル・プティ
| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
名前 | ||||||
愛称 | マヌ (Manu) | |||||
ラテン文字 | Emmanuel Petit | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | フランス | |||||
生年月日 | 1970年9月22日(54歳) | |||||
出身地 | ディエップ | |||||
身長 | 185cm | |||||
体重 | 79kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF/DF | |||||
利き足 | 左足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1985-1997 | ASモナコ | 222 | (4) | |||
1997-2000 | アーセナルFC | 85 | (9) | |||
2000-2001 | FCバルセロナ | 23 | (1) | |||
2001-2004 | チェルシーFC | 55 | (2) | |||
代表歴 | ||||||
1990-2003[1] | フランス | 63 | (6) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
エマニュエル・ローラン・プティ(Emmanuel Laurent Petit, 1970年9月22日 - )は、フランス出身の元サッカー選手。現テレビコメンター。選手時代のポジションはMF(ボランチ、センターハーフ)、DF(センターバック)。愛称はマヌ(Manu)。
クラブ経歴
[編集]1985年にフランス・リーグ・アンのASモナコでキャリアをスタート。1997-98シーズン、アーセン・ベンゲル監督が獲得を希望し、プレミアリーグのアーセナルFCへ移籍した[2] 。リーグ第35節のAFCウィンブルドン戦で移籍後初ゴールを挙げた。アーセナルではチームのリーグ優勝やFAカップ制覇などに貢献した。
2000年にはリーガ・エスパニョーラのFCバルセロナに加入するがロレンソ・セラ・フェレール監督の構想に合わなかったため出場機会を失い、1シーズンでチェルシーFCへ移籍。1年目は活躍するが、チームがロマン・アブラモビッチオーナーに買収された後は選手層の厚さもあって常時出場できず、故障も重なって2005年1月に引退を表明した。引退後はTVでサッカーの解説などを務めている。
代表経歴
[編集]1990年8月15日のポーランド戦でフランス代表にデビュー[3]、以来フランス代表の核として活躍。通算63試合に出場、6ゴールを挙げた[3]。1992年のユーロ92では代表入りしたが、出場機会は無かった。1994 FIFAワールドカップ予選1993年11月17日、パリの悲劇として知られるブルガリア戦にも出場した[3]。その後は代表を外れることが多く、1996年のユーロ96への出場も逃した。
1998年のフランスW杯では6試合に出場、グループリーグ第3戦のデンマーク戦で決勝ゴールを[3]、決勝のブラジル戦ではコーナーキックからジダンの決勝点となるゴールをアシストしただけでなく、チームの3点目を決めて優勝に貢献した[3]。
2000年ユーロ2000では3試合に出場して優勝した。2002年、2002 FIFAワールドカップでも2試合に出場したが[3]、グループリーグ第3戦では出番が無く、チームも決勝トーナメントに進めなかった。
個人記録
[編集]代表での成績
[編集]- 出典[1]
フランス代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1990 | 1 | 0 |
1991 | 0 | 0 |
1992 | 5 | 0 |
1993 | 7 | 0 |
1994 | 1 | 0 |
1995 | 0 | 0 |
1996 | 1 | 0 |
1997 | 2 | 0 |
1998 | 10 | 2 |
1999 | 5 | 1 |
2000 | 14 | 1 |
2001 | 7 | 1 |
2002 | 9 | 1 |
2003 | 1 | 0 |
合計 | 63 | 6 |
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ a b “Emmanuel Petit - International Appearances” (英語). The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation
- ^ “Emmanue Petit”. アーセナル. 2023年3月30日閲覧。
- ^ a b c d e f “Emmanuel Petit”. FFF. 2023年3月30日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- エマニュエル・プティ - Soccerbase