小豆島八十八箇所(しょうどしまはちじゅうはちかしょ)は、遍路の起源である辺地修行が盛んな修行地として、山岳修行者を中心に、古くから巡礼の歴史がある霊場である。小豆島の険しい地形を利用した行場を巡る遍路は、四国や他の八十八ヶ所霊場とは異なり、ほとんどの札所で海を望め、目まぐるしく対岸の景色が変化していく様は他に類を見ない。全周はおよそ38里(150km)、徒歩で一週間、車で3泊4日ほどで巡ることができる。 初めて史実に登場したのは貞享3年(1686年)であり、江戸時代の初期には巡拝者の手記が残っており、その頃には四国霊場と同じく朱印をいただきながら巡る体制が整っていた。同じく江戸時代に起こった知多四国霊場(文化6年)、篠栗四国八十八ヶ所霊場(天保6年)と合わせて「日本三大新四国霊場」の一つとされるが、その中でも最古参であり、設立当初は島内に6社ある八幡宮を含む神仏習合霊場であった。明治期に、八幡宮および別当寺が札所から外れ、移転したことによって、巡拝路と札所の番号が一致しなくなった。また、奥の院および番外として札所の数が増え、現在は94箇所の札所が存在する。

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  • 小豆島八十八箇所(しょうどしまはちじゅうはちかしょ)は、遍路の起源である辺地修行が盛んな修行地として、山岳修行者を中心に、古くから巡礼の歴史がある霊場である。小豆島の険しい地形を利用した行場を巡る遍路は、四国や他の八十八ヶ所霊場とは異なり、ほとんどの札所で海を望め、目まぐるしく対岸の景色が変化していく様は他に類を見ない。全周はおよそ38里(150km)、徒歩で一週間、車で3泊4日ほどで巡ることができる。 初めて史実に登場したのは貞享3年(1686年)であり、江戸時代の初期には巡拝者の手記が残っており、その頃には四国霊場と同じく朱印をいただきながら巡る体制が整っていた。同じく江戸時代に起こった知多四国霊場(文化6年)、篠栗四国八十八ヶ所霊場(天保6年)と合わせて「日本三大新四国霊場」の一つとされるが、その中でも最古参であり、設立当初は島内に6社ある八幡宮を含む神仏習合霊場であった。明治期に、八幡宮および別当寺が札所から外れ、移転したことによって、巡拝路と札所の番号が一致しなくなった。また、奥の院および番外として札所の数が増え、現在は94箇所の札所が存在する。 小豆島霊場の寺院は、すべて真言宗寺院なので、本堂の脇仏として弘法大師が奉られることが多く、四国霊場のように本堂とは別に大師堂を設けて、個別に参拝する習慣はない。全札所の中で、寺院30、山岳13、堂庵坊50あり、朱印は寺院でまとめて押下する。そのため、朱印料は、寺院(300円)か山岳・堂庵坊(100円)かによって差別化され、掛け軸、納経帳、白衣など、押下する対象による金額差はない。 しばしば誤解されているのが、四国霊場の札所と御本尊を地元に写して、そこを巡ることによって、四国霊場を巡礼したことと同じ功徳を得られるとした「写し霊場」の一つをされている点で、成立時から現在に至るまで、小豆島霊場の中に四国霊場と同一の札所は存在しない。それゆえ、瀬戸内海の島嶼(淡路島、粟島、因島、弓削島、大島など)に存在する写し霊場を「島四国」として、その中に小豆島を含めることは霊場の歴史・規模を見誤る可能性がある。 (ja)
  • 小豆島八十八箇所(しょうどしまはちじゅうはちかしょ)は、遍路の起源である辺地修行が盛んな修行地として、山岳修行者を中心に、古くから巡礼の歴史がある霊場である。小豆島の険しい地形を利用した行場を巡る遍路は、四国や他の八十八ヶ所霊場とは異なり、ほとんどの札所で海を望め、目まぐるしく対岸の景色が変化していく様は他に類を見ない。全周はおよそ38里(150km)、徒歩で一週間、車で3泊4日ほどで巡ることができる。 初めて史実に登場したのは貞享3年(1686年)であり、江戸時代の初期には巡拝者の手記が残っており、その頃には四国霊場と同じく朱印をいただきながら巡る体制が整っていた。同じく江戸時代に起こった知多四国霊場(文化6年)、篠栗四国八十八ヶ所霊場(天保6年)と合わせて「日本三大新四国霊場」の一つとされるが、その中でも最古参であり、設立当初は島内に6社ある八幡宮を含む神仏習合霊場であった。明治期に、八幡宮および別当寺が札所から外れ、移転したことによって、巡拝路と札所の番号が一致しなくなった。また、奥の院および番外として札所の数が増え、現在は94箇所の札所が存在する。 小豆島霊場の寺院は、すべて真言宗寺院なので、本堂の脇仏として弘法大師が奉られることが多く、四国霊場のように本堂とは別に大師堂を設けて、個別に参拝する習慣はない。全札所の中で、寺院30、山岳13、堂庵坊50あり、朱印は寺院でまとめて押下する。そのため、朱印料は、寺院(300円)か山岳・堂庵坊(100円)かによって差別化され、掛け軸、納経帳、白衣など、押下する対象による金額差はない。 しばしば誤解されているのが、四国霊場の札所と御本尊を地元に写して、そこを巡ることによって、四国霊場を巡礼したことと同じ功徳を得られるとした「写し霊場」の一つをされている点で、成立時から現在に至るまで、小豆島霊場の中に四国霊場と同一の札所は存在しない。それゆえ、瀬戸内海の島嶼(淡路島、粟島、因島、弓削島、大島など)に存在する写し霊場を「島四国」として、その中に小豆島を含めることは霊場の歴史・規模を見誤る可能性がある。 (ja)
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  • 小豆島八十八箇所(しょうどしまはちじゅうはちかしょ)は、遍路の起源である辺地修行が盛んな修行地として、山岳修行者を中心に、古くから巡礼の歴史がある霊場である。小豆島の険しい地形を利用した行場を巡る遍路は、四国や他の八十八ヶ所霊場とは異なり、ほとんどの札所で海を望め、目まぐるしく対岸の景色が変化していく様は他に類を見ない。全周はおよそ38里(150km)、徒歩で一週間、車で3泊4日ほどで巡ることができる。 初めて史実に登場したのは貞享3年(1686年)であり、江戸時代の初期には巡拝者の手記が残っており、その頃には四国霊場と同じく朱印をいただきながら巡る体制が整っていた。同じく江戸時代に起こった知多四国霊場(文化6年)、篠栗四国八十八ヶ所霊場(天保6年)と合わせて「日本三大新四国霊場」の一つとされるが、その中でも最古参であり、設立当初は島内に6社ある八幡宮を含む神仏習合霊場であった。明治期に、八幡宮および別当寺が札所から外れ、移転したことによって、巡拝路と札所の番号が一致しなくなった。また、奥の院および番外として札所の数が増え、現在は94箇所の札所が存在する。 (ja)
  • 小豆島八十八箇所(しょうどしまはちじゅうはちかしょ)は、遍路の起源である辺地修行が盛んな修行地として、山岳修行者を中心に、古くから巡礼の歴史がある霊場である。小豆島の険しい地形を利用した行場を巡る遍路は、四国や他の八十八ヶ所霊場とは異なり、ほとんどの札所で海を望め、目まぐるしく対岸の景色が変化していく様は他に類を見ない。全周はおよそ38里(150km)、徒歩で一週間、車で3泊4日ほどで巡ることができる。 初めて史実に登場したのは貞享3年(1686年)であり、江戸時代の初期には巡拝者の手記が残っており、その頃には四国霊場と同じく朱印をいただきながら巡る体制が整っていた。同じく江戸時代に起こった知多四国霊場(文化6年)、篠栗四国八十八ヶ所霊場(天保6年)と合わせて「日本三大新四国霊場」の一つとされるが、その中でも最古参であり、設立当初は島内に6社ある八幡宮を含む神仏習合霊場であった。明治期に、八幡宮および別当寺が札所から外れ、移転したことによって、巡拝路と札所の番号が一致しなくなった。また、奥の院および番外として札所の数が増え、現在は94箇所の札所が存在する。 (ja)
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  • 小豆島八十八箇所 (ja)
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