小林 弥六(こばやし やろく、1878年11月1日 - 1943年3月22日)は、日本の映画監督。 石川県金沢市生まれ。専門学校卒業。1907年(明治40年)、横田商会に撮影技師として入社し、巡業隊に属して映写技師や活動弁士を務める。1909年(明治42年)頃からは同社で牧野省三監督・尾上松之助主演作品の助監督に就く。1912年(大正元年)の日活創立で同社の撮影部に入り、やがて監督に昇進した。1920年(大正9年)、日活時代劇部が二部制となり、第一部で松之助映画の監督を務めた。翌年には牧野が日活を去ったため、以降は松之助映画を専門に撮り続けた。1926年(大正15年)に松之助が死去してからは監督を辞め、池永浩久撮影所長の秘書、製作総務部長、衣裳係主任などを務め、定年退職後も嘱託として晩年まで撮影所に勤務した。 主な監督作品に『お祭佐七』(1917年)、『槍の権三郎』(1918年)、『弥次喜多 前篇 善光寺詣りの巻』(1921年、辻吉朗監督と共同、現存)、『乞食と大名』(1925年)など。

Property Value
dbo:abstract
  • 小林 弥六(こばやし やろく、1878年11月1日 - 1943年3月22日)は、日本の映画監督。 石川県金沢市生まれ。専門学校卒業。1907年(明治40年)、横田商会に撮影技師として入社し、巡業隊に属して映写技師や活動弁士を務める。1909年(明治42年)頃からは同社で牧野省三監督・尾上松之助主演作品の助監督に就く。1912年(大正元年)の日活創立で同社の撮影部に入り、やがて監督に昇進した。1920年(大正9年)、日活時代劇部が二部制となり、第一部で松之助映画の監督を務めた。翌年には牧野が日活を去ったため、以降は松之助映画を専門に撮り続けた。1926年(大正15年)に松之助が死去してからは監督を辞め、池永浩久撮影所長の秘書、製作総務部長、衣裳係主任などを務め、定年退職後も嘱託として晩年まで撮影所に勤務した。 主な監督作品に『お祭佐七』(1917年)、『槍の権三郎』(1918年)、『弥次喜多 前篇 善光寺詣りの巻』(1921年、辻吉朗監督と共同、現存)、『乞食と大名』(1925年)など。 (ja)
  • 小林 弥六(こばやし やろく、1878年11月1日 - 1943年3月22日)は、日本の映画監督。 石川県金沢市生まれ。専門学校卒業。1907年(明治40年)、横田商会に撮影技師として入社し、巡業隊に属して映写技師や活動弁士を務める。1909年(明治42年)頃からは同社で牧野省三監督・尾上松之助主演作品の助監督に就く。1912年(大正元年)の日活創立で同社の撮影部に入り、やがて監督に昇進した。1920年(大正9年)、日活時代劇部が二部制となり、第一部で松之助映画の監督を務めた。翌年には牧野が日活を去ったため、以降は松之助映画を専門に撮り続けた。1926年(大正15年)に松之助が死去してからは監督を辞め、池永浩久撮影所長の秘書、製作総務部長、衣裳係主任などを務め、定年退職後も嘱託として晩年まで撮影所に勤務した。 主な監督作品に『お祭佐七』(1917年)、『槍の権三郎』(1918年)、『弥次喜多 前篇 善光寺詣りの巻』(1921年、辻吉朗監督と共同、現存)、『乞食と大名』(1925年)など。 (ja)
dbo:birthYear
  • 1878-01-01 (xsd:gYear)
dbo:deathYear
  • 1943-01-01 (xsd:gYear)
dbo:wikiPageExternalLink
dbo:wikiPageID
  • 3147827 (xsd:integer)
dbo:wikiPageLength
  • 2539 (xsd:nonNegativeInteger)
dbo:wikiPageRevisionID
  • 77497183 (xsd:integer)
dbo:wikiPageWikiLink
prop-en:wikiPageUsesTemplate
prop-en:ふりがな
  • こばやし やろく (ja)
  • こばやし やろく (ja)
prop-en:出生地
  • ・石川県金沢市 (ja)
  • ・石川県金沢市 (ja)
prop-en:別名義
  • 小林 靖長(雅号は呑酒) (ja)
  • 小林 靖長(雅号は呑酒) (ja)
prop-en:没年
  • 1943 (xsd:integer)
prop-en:没日
  • 22 (xsd:integer)
prop-en:没月
  • 3 (xsd:integer)
prop-en:活動期間
  • 1907 (xsd:integer)
prop-en:生年
  • 1878 (xsd:integer)
prop-en:生日
  • 1 (xsd:integer)
prop-en:生月
  • 11 (xsd:integer)
prop-en:職業
prop-en:芸名
  • 小林 弥六 (ja)
  • 小林 弥六 (ja)
prop-en:著名な家族
  • 姪:小林加奈枝 (ja)
  • 次男:小林重夫 (ja)
  • 長男:小林昌典 (ja)
  • 姪:小林加奈枝 (ja)
  • 次男:小林重夫 (ja)
  • 長男:小林昌典 (ja)
dct:subject
rdf:type
rdfs:comment
  • 小林 弥六(こばやし やろく、1878年11月1日 - 1943年3月22日)は、日本の映画監督。 石川県金沢市生まれ。専門学校卒業。1907年(明治40年)、横田商会に撮影技師として入社し、巡業隊に属して映写技師や活動弁士を務める。1909年(明治42年)頃からは同社で牧野省三監督・尾上松之助主演作品の助監督に就く。1912年(大正元年)の日活創立で同社の撮影部に入り、やがて監督に昇進した。1920年(大正9年)、日活時代劇部が二部制となり、第一部で松之助映画の監督を務めた。翌年には牧野が日活を去ったため、以降は松之助映画を専門に撮り続けた。1926年(大正15年)に松之助が死去してからは監督を辞め、池永浩久撮影所長の秘書、製作総務部長、衣裳係主任などを務め、定年退職後も嘱託として晩年まで撮影所に勤務した。 主な監督作品に『お祭佐七』(1917年)、『槍の権三郎』(1918年)、『弥次喜多 前篇 善光寺詣りの巻』(1921年、辻吉朗監督と共同、現存)、『乞食と大名』(1925年)など。 (ja)
  • 小林 弥六(こばやし やろく、1878年11月1日 - 1943年3月22日)は、日本の映画監督。 石川県金沢市生まれ。専門学校卒業。1907年(明治40年)、横田商会に撮影技師として入社し、巡業隊に属して映写技師や活動弁士を務める。1909年(明治42年)頃からは同社で牧野省三監督・尾上松之助主演作品の助監督に就く。1912年(大正元年)の日活創立で同社の撮影部に入り、やがて監督に昇進した。1920年(大正9年)、日活時代劇部が二部制となり、第一部で松之助映画の監督を務めた。翌年には牧野が日活を去ったため、以降は松之助映画を専門に撮り続けた。1926年(大正15年)に松之助が死去してからは監督を辞め、池永浩久撮影所長の秘書、製作総務部長、衣裳係主任などを務め、定年退職後も嘱託として晩年まで撮影所に勤務した。 主な監督作品に『お祭佐七』(1917年)、『槍の権三郎』(1918年)、『弥次喜多 前篇 善光寺詣りの巻』(1921年、辻吉朗監督と共同、現存)、『乞食と大名』(1925年)など。 (ja)
rdfs:label
  • 小林弥六 (ja)
  • 小林弥六 (ja)
prov:wasDerivedFrom
foaf:isPrimaryTopicOf
foaf:name
  • こばやし やろく (ja)
  • 小林 弥六 (ja)
  • こばやし やろく (ja)
  • 小林 弥六 (ja)
is dbo:wikiPageWikiLink of
is prop-en:著名な家族 of
is prop-en:製作 of
is owl:sameAs of
is foaf:primaryTopic of