本記事では、ヴェネツィア共和国の海外植民地であった時代のクレタ島について解説する。 ヴェネツィアによるクレタ島支配は、ヴェネツィアが同島を軍事的に征服した1205年-1212年頃から、中にオスマン帝国によって占領されるまで続いた。クレタ島は当時から近現代までカンディアという名前で一般に知られていた。これはその首都カンディア/カンダクス(Candia/Chandax。現在のイラクリオン)から来ている。現代のギリシア史学では、この時代はヴェネトクラティア(ギリシア語: Βενετοκρατία、Venetokratia、英語: Venetocracy)またはエネトクラティア(Enetokratia)とも呼ばれている。後世の植民地帝国に通じる経営が行われたことから中世盛期から中世後期にかけての「西欧世界拡大」の文脈でも捉えられ、フランスの歴史学者はヴェネツィア領クレタを「中世に存在した、唯一の正真正銘の植民地」と評している。 なお、日本語においてクレタ島のヴェネツィア時代を指す定まった用語は存在しない。当時の名称としてはカンディア王国(イタリア語: Regno di Candia)、またはカンディア公国(イタリア語: Ducato di Candia)が用いられたが、日本語の書籍・論文でこの用語が使用されることは無い。従って本項の記事名は暫定のものである点に留意されたい。

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  • 本記事では、ヴェネツィア共和国の海外植民地であった時代のクレタ島について解説する。 ヴェネツィアによるクレタ島支配は、ヴェネツィアが同島を軍事的に征服した1205年-1212年頃から、中にオスマン帝国によって占領されるまで続いた。クレタ島は当時から近現代までカンディアという名前で一般に知られていた。これはその首都カンディア/カンダクス(Candia/Chandax。現在のイラクリオン)から来ている。現代のギリシア史学では、この時代はヴェネトクラティア(ギリシア語: Βενετοκρατία、Venetokratia、英語: Venetocracy)またはエネトクラティア(Enetokratia)とも呼ばれている。後世の植民地帝国に通じる経営が行われたことから中世盛期から中世後期にかけての「西欧世界拡大」の文脈でも捉えられ、フランスの歴史学者はヴェネツィア領クレタを「中世に存在した、唯一の正真正銘の植民地」と評している。 クレタ島は1204年に第4回十字軍によってビザンツ帝国が崩壊するまでその一部であった。十字軍の指導者たちはビザンツ帝国領を各々の間で分割した(フランコクラティアも参照)。クレタ島は当初モンフェッラート侯ボニファッチョ1世の取り分となった。しかし彼は実際にこの島に支配権を及ぼすことができず、すぐにその権利をヴェネツィア共和国へ売却した。ヴェネツィア軍は1205年に初めてこの島を占領したが、安定させるまでには、特にジェノヴァ共和国の脅威を完全に排除するには1212年までかかった。その後、新しい植民地として次第にその輪郭が形作られた。クレタ島は6の地区()に分割された。これはヴェネツィア本国のにちなんで命名された。同時に、クレタ島の首都カンディアはCommune Veneciarumとして直接統治された。ティノス島とキティラ島もまたヴェネツィアの支配下に入り、ヴェネツィア領クレタの版図となった。14世紀初頭。地区区分は4つに再編された。これの境界は現代のギリシア共和国の県(ノモス)とほぼ同じである。 ヴェネツィア支配の最初の2世紀の間、正教会信徒の現地ギリシア人によるローマ・カトリックのヴェネツィア人に対する反乱が頻発し、ニカイア帝国がしばしばこれを支援した。1207年から最後の大規模反乱である1360年代の(この反乱はギリシア人とヴェネツィア人「植民者」が一体となってヴェネツィア本国による課税に抗った)まで、その数は18回を数える。その後、時折発生する反乱やトルコ人の襲撃にも関わらず、クレタ島は大きく繁栄し、ヴェネツィアの統治を通じて当時イタリアで進展していたルネサンスの影響が及んだ。その結果、ギリシア世界では他に比類のない芸術と文学の復興がもたらされた。最終的にエル・グレコを生み出す絵画のはイタリアとビザンティンの様式を統合し、またヴェネツィア時代には現地の表現を使用した広範な文学が登場した。これは17世紀初頭のロマンス作品『Erotokritos』と『Erophile』で頂点を迎える。 1571年のの後、クレタ島はヴェネツィアに残された最後の主要海外領土となった。ヴェネツィアの相対的な軍事的劣勢は、クレタ島の富や東地中海の海路を支配するその戦略的に重要な立地と相まってオスマン帝国の注意を惹きつけた。ヴェネツィアとオスマン帝国はクレタ島の支配権を巡って長く悲惨な(カンディア戦争とも)を戦った。オスマン帝国は迅速にクレタ島を占領したが、首都カンディアの奪取には失敗した。カンディアは優勢なヴェネツィア海軍の支援と、オスマン帝国が他の地域での出来事に煩わされたことで1669年まで持ちこたえたが、最終的に陥落した。そして、、スピナロンガ島という3つの島だけがヴェネツィアの手に残った。ヴェネツィアはの最中にカンディアの奪還を試みたが失敗し、最終的に前哨地となるこれら3つの島もの最中の1715年にオスマン帝国の手に落ちた。 なお、日本語においてクレタ島のヴェネツィア時代を指す定まった用語は存在しない。当時の名称としてはカンディア王国(イタリア語: Regno di Candia)、またはカンディア公国(イタリア語: Ducato di Candia)が用いられたが、日本語の書籍・論文でこの用語が使用されることは無い。従って本項の記事名は暫定のものである点に留意されたい。 (ja)
  • 本記事では、ヴェネツィア共和国の海外植民地であった時代のクレタ島について解説する。 ヴェネツィアによるクレタ島支配は、ヴェネツィアが同島を軍事的に征服した1205年-1212年頃から、中にオスマン帝国によって占領されるまで続いた。クレタ島は当時から近現代までカンディアという名前で一般に知られていた。これはその首都カンディア/カンダクス(Candia/Chandax。現在のイラクリオン)から来ている。現代のギリシア史学では、この時代はヴェネトクラティア(ギリシア語: Βενετοκρατία、Venetokratia、英語: Venetocracy)またはエネトクラティア(Enetokratia)とも呼ばれている。後世の植民地帝国に通じる経営が行われたことから中世盛期から中世後期にかけての「西欧世界拡大」の文脈でも捉えられ、フランスの歴史学者はヴェネツィア領クレタを「中世に存在した、唯一の正真正銘の植民地」と評している。 クレタ島は1204年に第4回十字軍によってビザンツ帝国が崩壊するまでその一部であった。十字軍の指導者たちはビザンツ帝国領を各々の間で分割した(フランコクラティアも参照)。クレタ島は当初モンフェッラート侯ボニファッチョ1世の取り分となった。しかし彼は実際にこの島に支配権を及ぼすことができず、すぐにその権利をヴェネツィア共和国へ売却した。ヴェネツィア軍は1205年に初めてこの島を占領したが、安定させるまでには、特にジェノヴァ共和国の脅威を完全に排除するには1212年までかかった。その後、新しい植民地として次第にその輪郭が形作られた。クレタ島は6の地区()に分割された。これはヴェネツィア本国のにちなんで命名された。同時に、クレタ島の首都カンディアはCommune Veneciarumとして直接統治された。ティノス島とキティラ島もまたヴェネツィアの支配下に入り、ヴェネツィア領クレタの版図となった。14世紀初頭。地区区分は4つに再編された。これの境界は現代のギリシア共和国の県(ノモス)とほぼ同じである。 ヴェネツィア支配の最初の2世紀の間、正教会信徒の現地ギリシア人によるローマ・カトリックのヴェネツィア人に対する反乱が頻発し、ニカイア帝国がしばしばこれを支援した。1207年から最後の大規模反乱である1360年代の(この反乱はギリシア人とヴェネツィア人「植民者」が一体となってヴェネツィア本国による課税に抗った)まで、その数は18回を数える。その後、時折発生する反乱やトルコ人の襲撃にも関わらず、クレタ島は大きく繁栄し、ヴェネツィアの統治を通じて当時イタリアで進展していたルネサンスの影響が及んだ。その結果、ギリシア世界では他に比類のない芸術と文学の復興がもたらされた。最終的にエル・グレコを生み出す絵画のはイタリアとビザンティンの様式を統合し、またヴェネツィア時代には現地の表現を使用した広範な文学が登場した。これは17世紀初頭のロマンス作品『Erotokritos』と『Erophile』で頂点を迎える。 1571年のの後、クレタ島はヴェネツィアに残された最後の主要海外領土となった。ヴェネツィアの相対的な軍事的劣勢は、クレタ島の富や東地中海の海路を支配するその戦略的に重要な立地と相まってオスマン帝国の注意を惹きつけた。ヴェネツィアとオスマン帝国はクレタ島の支配権を巡って長く悲惨な(カンディア戦争とも)を戦った。オスマン帝国は迅速にクレタ島を占領したが、首都カンディアの奪取には失敗した。カンディアは優勢なヴェネツィア海軍の支援と、オスマン帝国が他の地域での出来事に煩わされたことで1669年まで持ちこたえたが、最終的に陥落した。そして、、スピナロンガ島という3つの島だけがヴェネツィアの手に残った。ヴェネツィアはの最中にカンディアの奪還を試みたが失敗し、最終的に前哨地となるこれら3つの島もの最中の1715年にオスマン帝国の手に落ちた。 なお、日本語においてクレタ島のヴェネツィア時代を指す定まった用語は存在しない。当時の名称としてはカンディア王国(イタリア語: Regno di Candia)、またはカンディア公国(イタリア語: Ducato di Candia)が用いられたが、日本語の書籍・論文でこの用語が使用されることは無い。従って本項の記事名は暫定のものである点に留意されたい。 (ja)
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  • 本記事では、ヴェネツィア共和国の海外植民地であった時代のクレタ島について解説する。 ヴェネツィアによるクレタ島支配は、ヴェネツィアが同島を軍事的に征服した1205年-1212年頃から、中にオスマン帝国によって占領されるまで続いた。クレタ島は当時から近現代までカンディアという名前で一般に知られていた。これはその首都カンディア/カンダクス(Candia/Chandax。現在のイラクリオン)から来ている。現代のギリシア史学では、この時代はヴェネトクラティア(ギリシア語: Βενετοκρατία、Venetokratia、英語: Venetocracy)またはエネトクラティア(Enetokratia)とも呼ばれている。後世の植民地帝国に通じる経営が行われたことから中世盛期から中世後期にかけての「西欧世界拡大」の文脈でも捉えられ、フランスの歴史学者はヴェネツィア領クレタを「中世に存在した、唯一の正真正銘の植民地」と評している。 なお、日本語においてクレタ島のヴェネツィア時代を指す定まった用語は存在しない。当時の名称としてはカンディア王国(イタリア語: Regno di Candia)、またはカンディア公国(イタリア語: Ducato di Candia)が用いられたが、日本語の書籍・論文でこの用語が使用されることは無い。従って本項の記事名は暫定のものである点に留意されたい。 (ja)
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