荒涼とした冬景色のトルコ南東部。
年老いたムサは、亡き妻の遺体を故郷の地に埋葬するという約束を守るため、棺とともに旅をしている。
紛争の続く場所へ帰りたくない孫娘のハリメだったが、親を亡くし、仕方なく一緒に歩いている。
亡き妻とともに故郷への帰還を渇望するムサ。旅で出会う様々な人たちから、まるで神の啓示のような“生きる言葉” を授かりながら進んでゆく。
国境、生と死、過去と未来、自己と他者、棺をかつぐ祖父と孫娘の心の融和。
トルコから届いた3人のおとぎ話は、境界線の先に小さな光を灯す。
人間は理不尽に訪れる死を前になすすべもない。
だからこそ、何千年も前からずっとあがき爪痕を残すように、芸術は死を描き続けてきた。
戦争という理不尽に翻弄される少女にとって、死を背負う祖父の切実な歩みもまた理不尽である。しかし、その理不尽の中でもとにかく足を前に進ませなくてはならないその姿は、生きることそのもののようでもある。だからこそ、歩みの先にある「越境」の瞬間と、それを目撃する少女の姿に胸を打たれる。
なぜなら、それはいずれ私たちに必ず訪れる未来の予兆でもあるからだ。
虚飾なき描写の積み重ねの果てに、突如 夢幻的、魔術的とも見える光景が出現する斬新で寓話的な構成。 説明描写を極力避け、挙動や表情、小道具、そして風景の力で多くを語らせる映画的演出。主人公たちの寡黙さとは対照的に、周縁的存在に大多数の台詞を付与する非一般的な脚本美学……。
先鋭的で強烈な作家性を世界に印象付ける一作が登場した。
現代の社会情勢を モチーフにしながら、 崇高で純粋な寓話として昇華させた物語
長年どこかにしまって忘れていた絵本を偶然みつけて読んだような喜び。
この映画は眠っていた心を揺さぶり起こす。
ずっと義母のことを考えて観ていました。
私の夫の母はチベット人です。
1948年から始まった、毛沢東率いる中国共産党にチベットが侵攻された時、彼女はまだ少女でした。
両親から言われるがままにチベットから亡命した時は13歳、まさかその後長年戻ることが出来なくなるとは毛頭思わなかったでしょう。
少しの間の我慢だと言い聞かされ、何週間もかけて道なき道を進み、辿り着いたインドでは家族がバラバラになってしまい、父とは途中ではぐれ、その後中国軍に刺殺されたんじゃないかという噂だけが届く…。
現代の日本に生まれた私には想像を絶する体験です。
彼女はその後スイスに難民として受け入れられ、数年後にスイス国籍をもらえた為、簡単ではないもののチベットに渡航することも出来るようになりました。今となっては祖国チベットより何倍も長い年月をスイスで過ごし、彼女の生活は全てスイスにあります。 それでも彼女は息子である私の夫に、将来自身が亡くなった際には遺灰をチベットの美しい湖、ナムツォ湖に散骨してほしいと頼んでいます。
現在難民は、戦争・紛争の理由の他に、気候変動などで住む場所が奪われている人たちも増加の一途を辿っています。戦争を知らない世代が戦争をしたがっている、と囁かれる今日この頃、「生まれた場所に還りたい」という人々の思いが世界中に溢れていることを、私たち日本人も肝に銘じておかなければと思うのです。
世界の情勢が大きく揺れている。
東京で薄らボンヤリ暮らす私は人々のささやかな幸せへの願いが叶わない事に憤っている。
生涯を共にした妻を生まれた場所に埋葬したい。預ける人がいなかった孫を連れて。
私はあの棺に祖父の全てが詰まっていたのだと思う。
その最後の背中を観客は少女と一緒に見届ける事になる。
約束を果たす為、棺を背負う祖父。
寄り添う孫娘。
トルコの美しい自然と、出逢いが 私たちに、どう生きるか? を突き付けてくる。