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小笠原満男

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小笠原 満男
名前
カタカナ オガサワラ ミツオ
ラテン文字 OGASAWARA Mitsuo
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1979-04-05) 1979年4月5日(45歳)
出身地 岩手県盛岡市
身長 173cm
体重 72kg
選手情報
在籍チーム 日本の旗 鹿島アントラーズ
ポジション MF
背番号 40
利き足 右足
代表歴
2002-2006 日本の旗 日本 53 (7)
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

小笠原 満男(おがさわら みつお、1979年4月5日 - )は、鹿島アントラーズ所属のサッカー選手。ポジションはMF

来歴

1995年岩手県立大船渡高等学校に入学。U-16(16歳以下)で日本代表に初招集されている。第76回高校サッカー選手権に大船渡高校の選手として出場し、ベスト16に駒を進める原動力となる活躍で大会優秀選手に選出され[1]注目を集めた。高校選抜でチームを組んだ日本代表に選出され、第58回ベリンツォーナ国際ユース大会等に出場した。

1998年高校卒業と同時に鹿島アントラーズに入団した。本山雅志中田浩二曽ヶ端準などと同期である。同年の4月15日に行われたガンバ大阪戦でJリーグデビューを果たした。U-19日本代表としてAFCユース選手権に出場し準優勝を遂げている。

1999年は5月5日のジュビロ磐田戦でヘディングからJリーグ初得点を記録した。U-20日本代表としてナイジェリアで開催されたFIFAワールドユース選手権に出場し準優勝に貢献した。自身は1次リーグのアメリカ戦で1ゴールを決めている。サッカージャーナリストの後藤健生は、この大会を「小笠原の大会」であったと評している[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。。U-22オリンピック代表にも選出されるが、プレー中におけるコミュニケーションの乏しさをフィリップ・トルシエ監督に厳しく指摘され、予選途中から招集外となった。

2000年はクラブでレギュラーとして活躍し、鹿島アントラーズの史上初の3冠ヤマザキナビスコカップ、Jリーグ、天皇杯の優勝)を達成に貢献した。リーグ戦のみならず横浜F・マリノスとの対戦になったJリーグチャンピオンシップ天皇杯における活躍も高く評価され、両大会においてMVPに選出されるなど3冠達成の大きな原動力となった。2000年のJ1第1ステージ最終節でハーフライン付近からシュートを放ったがクロスバーに当たりゴールとはならなかった。トニーニョ・セレーゾ監督が「入っていれば銅像でも立ててやりたかった」とコメントしたことから、サポーターの間で「銅像シュート」と呼ばれ有名になった[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。。チャンピオンシップの試合中にフリーキックのキッカーを巡ってそれまで負傷で試合に出ていなかったビスマルクともめる一幕があった。名良橋晃の説得によりビスマルクはキッカーを譲ったが、小笠原の蹴ったフリーキックは外れてしまったものの、試合後MVPに選出されたこともあわせ、近い将来の鹿島における小笠原時代の到来を予感させた[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。

2001年の元旦1月1日に行われた天皇杯決勝、清水エスパルス戦において、先制ゴールと延長前半にVゴールとなるミドルシュートを決め、最終スコア3-2で勝利した。先制ゴールとなったフリーキックでは、主審にプレーの停止を要請せず、清水の選手たちが態勢を整える前にボールを蹴りこんでいる。公式戦における21世紀最初のゴールとなった。この試合での活躍によりAFC月間最優秀ゴール賞を獲得した。5月の柏レイソル戦で左肘を骨折するものの8月に復帰している。12月のチャンピオンシップ第2戦、ジュビロ磐田戦においては延長戦10分にVゴールとなる直接FKを決めJリーグ連覇に貢献し、2年連続チャンピオンシップMVPを獲得した。Jリーグベストイレブンに選出された。この年以後は2005年まで連続で選出されている。

2002年はこれまで鹿島の要であったビスマルクが退団した。3月21日の対ウクライナ戦でA代表デビュー。22歳で日韓ワールドカップ日本代表にも選出されたが、グループリーグ第3戦の対チュニジア戦へ6分間出場したのみに終わった。クラブのナビスコカップでの優勝に貢献し自身はMVPを獲得した。

2004年2月7日のキリンチャレンジカップマレーシア戦で代表初ゴールを決めたが、その直後2月9日に茨城県鹿嶋市で行われていた代表合宿中に他7人の選手と共に無断外出しキャバクラで飲食し問題を起こしていたことが発覚した。代表監督であったジーコは「裏切り行為と感じた」として小笠原ら8人を代表から外した。

2005年ワールドカップアジア最終予選北朝鮮戦、バーレーン戦で得点をあげるなど、日本のアジア予選突破に大きく貢献した。8月にはセリエAラツィオからオファーがあったが、チームが優勝争いをしていた最中であった為移籍を断念している。

2006年1月にプレミアリーグ留学を行っている。2月18日のキリンチャレンジカップフィンランド戦に出場し、後半12分に日本陣内から約58m、滞空時間4秒におよぶ超ロングシュートを決めた。後世に残るスーパーゴールを記録した。6月には自身2度目のワールドカップとなるドイツワールドカップ日本代表に選出された。グループリーグ第2戦の対クロアチア戦にフル出場、さらに第3戦の対ブラジル戦も先発出場したが、2敗1分で日本の決勝 リーグ進出はならなかった。7月15日にカシマサッカースタジアムで開催されたJリーグオールスターサッカーに史上最多得票で選出された。

イタリア移籍

同年8月にセリエAのメッシーナへ2007年6月まで10ヶ月間のレンタル移籍することが発表された。以前から望んでいた海外への初挑戦となった。9月20日の対レッジーナ戦において後半8分から途中交代で出場しセリエAデビューを果たした。10月21日のエンポリ戦でセリエA初ゴールを記録した。その後チームは降格危機を迎えたが出場のチャンスに恵まれることがなく、ほとんどの試合でベンチ外を強いられた。2006-2007シーズンはリーグ最下位でセリエB降格が決まった。

鹿島復帰

セリエAの終了後に欧州の他チームへの移籍を希望したがオファーがなく、2007年7月3日にレンタル終了の形で鹿島アントラーズへの復帰が発表された。背番号は40。過去に背負った8番を野沢拓也が背負っているため、Jリーグの規定における最大数の背番号を選択した。2008年に出場するAFCチャンピオンズリーグにおいては規定により30を超える背番号が認められないため、かつて本田泰人が背負っていた背番号「6」を着けてプレーしている。鹿島復帰後は主にボランチとして攻守ともにチームの要となり、チームの6シーズンぶりのJリーグ優勝に貢献した。12月1日の対清水エスパルス戦のPKによる得点でJリーグ通算50ゴールを達成している。

2008年元旦に行われた天皇杯決勝で勝利し優勝した。4月2日にひあ対アルビレックス新潟戦で、日本およびイタリアリーグ通算10シーズン連続得点を達成した。2008年9月20日(対柏レイソル)左膝半月板損傷および前十字靱帯損傷、全治10ヶ月という怪我を負った[2]。その際、短時間で二度のタックルを受けたが、一度目で靱帯損傷していたのではないかとコメントしている。この怪我により一時は引退も考慮していたがチームメイトの説得により現役の続行を決意した。シーズン終盤の優勝争いでは、ホペイロに頼みベンチ外メンバーのユニフォームを試合会場に持ってきてもらい、試合開始前の円陣に全員がユニフォームを着て参加するなどチームの士気向上に貢献した。手術後も早い時期からピッチのリハビリを開始するなど、キャプテンとしてピッチ外でも鹿島のリーグ連覇に貢献した。Jリーグ優秀選手に選出されている。

2009年シーズン開幕に向け、年末年始のオフを短縮してフィジカルコーチと共にリハビリに励んだ結果、キャンプ初日から主力組の中で練習を開始した。3月7日のJリーグ開幕戦、対浦和レッズ戦において2-0でリードしている後半41分から途中交代で出場し、168日ぶりに復帰した。この復帰戦を含め公式戦3試合連続出場後に3月18日のACL第2戦、対上海申花戦では公式戦での179日ぶり先発出場、さらに182日ぶりのフル出場を果たし勝利に貢献した。

プレースタイル

元々のポジションはトップ下で得意のスルーパスを中心に味方選手にボールを供給するゲームメーカーである。試合の流れを読む力やサイドへの展開など戦術眼にも優れているため2007シーズン頃からポジションをボランチに移している。

最大の武器は、高い技術に基づいた多彩なキックである。長短のパスはもちろんフリーキックコーナーキックシュートの精度の高さに表れている。直接FKの精度も高く、J1リーグ戦で通算12得点は三浦淳宏(15)、アルシンド(13)、ウェズレイ(13)についで歴代4位。

また大柄な選手ではないが体幹の強さを生かし周囲の激しいプレスをはねのけるボールキープ力、ボール奪取能力に優れている。2007年Jリーグ復帰以降、試合の要所で、チームを鼓舞するために、激しいプレスでボールを奪うというプレーが目をひく。このようなプレーはイタリアでの守備の意識変化と、晩年に鹿島でプレーしていたジョルジーニョの姿から大きく影響を受けている。

鹿島ではゲームキャプテンも務める。

名波浩中田英寿今野泰幸等と並んで「守備センスがすばらしい」とコラムで絶賛している。鹿島の鈴木強化部長には「試合を90分という中で把握でき、さらにコントロールできる唯一無二の選手」、「ラインに逃げずにボールをとれるのは今野と小笠原くらい」と評されている。

2001年ら2005年までJリーグベストイレブンを連続受賞し井原正巳と記録が並び、2006シーズンでの記録更新が期待されたが、セリエA移籍のため途絶えた。2007シーズンまでは最多タイ記録だったが、2008年に遠藤保仁に抜かれている。

代表歴

出場大会など

  • 1998年 AFCユース選手権
  • 1999年FIFAワールドユース選手権
  • 第58回ベリンツォーナ国際ユース大会
  • ニューイヤーユース
  • シドニーオリンピックアジア予選
  • 2002年 FIFAワールドカップ KOREA/JAPAN
  • 2003年 東アジアサッカー選手権
  • 2003年 FIFAコンフェデレーションズカップ2003
  • 2004年 アジアカップ
  • 2005年 FIFAコンフェデレーションズカップ2005
  • 2006年 FIFAワールドカップGERMANY2006

試合数

  • 国際Aマッチ 53試合 7得点(2002-2006)


日本代表国際Aマッチ
出場得点
2002 8 0
2003 8 0
2004 12 2
2005 15 4
2006 10 1
通算 53 7

関連項目

主な受賞歴

  • 1998年 第76回 全国高等学校サッカー選手権大会 大会優秀選手
  • 2000年 JリーグチャンピオンシップMVP、天皇杯MVP
  • 2001年 Jリーグベストイレブン、Jリーグ優秀選手賞、AFC1月月間最優秀ゴール賞、天皇杯MVP
  • 2002年 Jリーグ ベストイレブン、Jリーグ優秀選手賞、ナビスコカップMVP
  • 2003年 Jリーグ ベストイレブン、Jリーグ優秀選手賞
  • 2004年 Jリーグ ベストイレブン、Jリーグ優秀選手賞
  • 2005年 Jリーグ ベストイレブン、Jリーグ優秀選手賞
  • 2008年 Jリーグ優秀選手賞

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 ナビスコ杯天皇杯 期間通算
1998 鹿島 27 J 5 0 0 0 2 1 7 1
1999 鹿島 27 J1 15 4 5 0 1 0 21 4
2000 鹿島 17 J1 28 3 5 2 5 4 38 9
2001 鹿島 8 J1 24 7 3 0 3 2 30 9
2002 鹿島 8 J1 27 4 3 1 5 0 35 5
2003 鹿島 8 J1 27 7 3 1 4 3 34 11
2004 鹿島 8 J1 28 7 2 0 3 0 33 7
2005 鹿島 8 J1 30 11 0 0 2 0 32 11
2006 鹿島 8 J1 20 3 2 1 - 22 4
イタリア リーグ戦 イタリア杯オープン杯 期間通算
2006-07 メッシーナ 16 セリエA 6 1 2 0 - 8 1
日本 リーグ戦 ナビスコ杯天皇杯 期間通算
2007 鹿島 40 J1 14 4 4 1 5 1 23 6
2008 鹿島 40 J1 24 5 2 0 0 0 26 5
2009 鹿島 40 J1
通算 日本 J1 242 55 29 6 30 11 301 72
イタリア セリエA 6 1 2 0 - 8 1
総通算 248 56 31 6 30 11 309 73
国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
AFCACL
2002-03 鹿島 8 3 0
2008 鹿島 6 7 1
通算 AFC 10 1

関連項目

参照

  1. ^ 「先生を日本一に」盛岡商に“教え子”小笠原から激励電話
  2. ^ 鹿島・小笠原、全治6カ月の重傷 今季絶望

外部リンク