コンテンツにスキップ

ヨハン・ニースケンス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。59.166.5.81 (会話) による 2009年6月1日 (月) 22:17個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (2008年の動向)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

ヨハン・ニースケンス
ファイル:Neeskens.jpg
名前
本名 ヨハネス・ヤコブス・ニースケンス
愛称 ヨハン
カタカナ ヨハン・ニースケンス
ラテン文字 Johannes Jacobus Neeskens
基本情報
国籍 オランダの旗 オランダ
生年月日 (1951-09-15) 1951年9月15日(73歳)
出身地 ヘームステーデ
身長 178cm
体重 78kg
選手情報
在籍チーム 引退
ポジション MF (OH,CH)
利き足 右足
代表歴
1970-1981 オランダの旗 オランダ 49 (17)
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ヨハン・ニースケンスJohan Jacobus Neeskens1951年9月15日 - )は、オランダヘームステーデ出身の元同国代表サッカー選手サッカー指導者。ポジションはMF

史上最高のセンターハーフの一人。戦友であるヨハン・クライフとファーストネームが同じことから「もう一人のヨハン」と呼ばれた。オランダ人にしてはさほど長身ではないが、強靭な下半身からのシュート力は強烈なものがあった。PKのスペシャリストとしても名を馳せる。オランダ現地の発音では、「ネースケンス」に近い。

経歴

ヘームステーデ・ハーレムでデビュー後、1970年アヤックス・アムステルダムへ入団。入団当初は、右サイドバックとしてプレー。同年11月11日西ドイツ戦で代表デビューを飾り、1970-1971シーズンからのUEFAチャンピオンズカップ3連覇や1971-1972、1972-1973シーズンのリーグ連覇に貢献した。

1974年にはFCバルセロナへ移籍。攻守にわたる活躍と闘志溢れるプレーでファンを魅了し、活躍を見せた。また同年のFIFAワールドカップ・西ドイツ大会ではヨハン・クライフらを中心とする「トータル・フットボール」で準優勝に貢献。1978年FIFAワールドカップ・アルゼンチン大会ではクライフが出場辞退した中で主軸として活躍し、代表通算49試合に出場。17得点を挙げた。

その後、当時サッカー不毛の地と言われていたアメリカへ渡り、ニューヨーク・コスモスではフランツ・ベッケンバウアーとともにプレーし、1980年1982年にはリーグ優勝を果たした。1シーズンオランダのFCフローニンゲンでプレーした後、再び渡米し、選手生活の終盤はスイスでプレーした。

引退後は指導者としての道を歩み、1999年にはオランダ代表のアシスタントコーチに就任。エールディヴィジNECナイメヘンの監督も務めたが2004年12月に成績不振により解任されている。

2005年12月にはオーストラリア代表のアシスタントコーチに就任。

2006年6月、古巣のバルセロナにアシスタントコーチとして復帰することが決まり、ドイツW杯終了後に就任した。契約期間は3年間。しかし、2008年6月、チームが2年連続でリーグタイトルを逃した事などにより、ライカールトとともに解任された。

2008年11月、オランダB代表監督に就任した。

エピソード

  • アヤックスはかつてアマチュアの野球チームも所有していた。休日にはクライフやニースケンスも野球に参加する事があったという。クライフは野球はさっぱりだったようだが、ニースケンスは優秀な野手でプロからオファーがくる実力だった。彼の特徴的なプレーの一つであるスライディングタックルは野球から学んだという。

所属

選手

代表

  • 1970-1981 : オランダの旗オランダ代表 49試合17得点
    • FIFAワールドカップ出場 2回(1974年西ドイツ大会=準優勝、1978年アルゼンチン大会=準優勝)
    • UEFA欧州選手権出場 2回(1976年ユーゴスラビア大会=3位、1980年イタリア大会)

指導者

外部リンク