「財前宣之」の版間の差分
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[[1996年]]に[[スペイン]]1部リーグ、[[リーガ・エスパニョーラ]]の[[CDログロニェス|ログロニェス]]に移籍。監督にもその実力を認められていたが(当時チームは下位に低迷していたが、監督に「うちには財前がいる。彼の怪我が治れば大丈夫」と言わしめていた)、リーグ戦への出場を前にして、靭帯断裂のため帰国を余儀なくされる(もし怪我がなければスペイン1部リーグ初の日本人選手となっていた可能性が高い)。 |
[[1996年]]に[[スペイン]]1部リーグ、[[リーガ・エスパニョーラ]]の[[CDログロニェス|ログロニェス]]に移籍。監督にもその実力を認められていたが(当時チームは下位に低迷していたが、監督に「うちには財前がいる。彼の怪我が治れば大丈夫」と言わしめていた)、リーグ戦への出場を前にして、靭帯断裂のため帰国を余儀なくされる(もし怪我がなければスペイン1部リーグ初の日本人選手となっていた可能性が高い)。 |
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帰国から約1年後にV川崎にて公式戦初出場。[[クロアチア]]1部リーグ、[[プルヴァHNL|1.HNL]]の[[HNKリエカ|リエカ]]を経て、[[清水秀彦]]監督の誘いに応じて[[1999年]]に[[ベガルタ仙台]]入団。ここでクラブの中心選手として存在感を発揮。[[2001年]]J2最終戦、[[京都サンガF.C.|京都パープルサンガ]]戦で試合終了直前にチームを初のJ1昇格に導く決勝ゴールを挙げ |
帰国から約1年後にV川崎にて公式戦初出場。[[クロアチア]]1部リーグ、[[プルヴァHNL|1.HNL]]の[[HNKリエカ|リエカ]]を経て、[[清水秀彦]]監督の誘いに応じて[[1999年]]に[[ベガルタ仙台]]入団。ここでクラブの中心選手として存在感を発揮。[[2001年]]J2最終戦、[[京都サンガF.C.|京都パープルサンガ]]戦で試合終了直前にチームを初のJ1昇格に導く決勝ゴールを挙げた。 |
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[[2005年]]シーズン終了後、仙台から戦力外通告を受け退団。翌[[2006年]]からは同じ[[東北]]をホームとする[[モンテディオ山形]]に移籍し、4年間プレーしたが[[2009年]]に戦力外通告を受け、同年シーズン終了を以って退団。 |
[[2005年]]シーズン終了後、仙台から戦力外通告を受け退団。翌[[2006年]]からは同じ[[東北]]をホームとする[[モンテディオ山形]]に移籍し、4年間プレーしたが[[2009年]]に戦力外通告を受け、同年シーズン終了を以って退団。 |
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* [[キャプテン翼]]に登場する「弓倉宣之」は、財前がモデルといわれる。 |
* [[キャプテン翼]]に登場する「弓倉宣之」は、財前がモデルといわれる。 |
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* 山形に[[小林伸二]]監督が就任してからは財前は[[フォワード_(サッカー)|FW(主にセカンドトップ)]]での起用が増えていたが、自身のブログでMFとしてプレーがしたい旨の事を思いとして書いていた。チームがJ1へ昇格後は「干されてもいいから左サイドで勝負させて欲しい」と首脳陣へ直訴し、小林監督は財前が得意としている[[ミッドフィールダー|トップ下]]で起用。その監督の起用に応えるかの様に途中出場ではあるものの、山形の切り札としてアシストを量産する事となった。 |
* 山形に[[小林伸二]]監督が就任してからは財前は[[フォワード_(サッカー)|FW(主にセカンドトップ)]]での起用が増えていたが、自身のブログでMFとしてプレーがしたい旨の事を思いとして書いていた。チームがJ1へ昇格後は「干されてもいいから左サイドで勝負させて欲しい」と首脳陣へ直訴し、小林監督は財前が得意としている[[ミッドフィールダー|トップ下]]で起用。その監督の起用に応えるかの様に途中出場ではあるものの、山形の切り札としてアシストを量産する事となった。 |
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* 仙台時代の応援歌の原曲は[[ゴダイゴ]]の『[[ビューティフル・ネーム]]』、山形での応援歌の原曲は[[GOING STEADY]]の『愛しておくれ』だった。 |
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* タイのリーグに在籍したが、[[コリアンダー|パクチー]]が苦手である。 |
* タイのリーグに在籍したが、[[コリアンダー|パクチー]]が苦手である。 |
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2016年10月22日 (土) 14:08時点における版
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名前 | ||||||
愛称 | ザイ・天才 | |||||
カタカナ | ザイゼン ノブユキ | |||||
ラテン文字 | ZAIZEN Nobuyuki | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1976年10月19日(48歳) | |||||
出身地 | 北海道室蘭市 | |||||
身長 | 170cm[1] | |||||
体重 | 66kg[1] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
利き足 | 右足 | |||||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
財前 宣之(ざいぜん のぶゆき、1976年10月19日 - )は、北海道出身の元プロサッカー選手・サッカー指導者。ポジションはミッドフィールダー。実兄は元サッカー選手の財前恵一。
来歴・人物
中田英寿も認めた才能の持ち主(運動量なら中田、パスセンスなら財前と言われていた)だったが、度重なる膝の怪我に苦しんだ(靭帯断裂を3度)。戸塚哲也、菊原志郎、山口貴之と続く「ヨミウリ天才少年」の系譜を受け継ぐ。1993年のU-17世界選手権U-17日本代表のチームメイトからは中田を含め4人が後の日本代表に選出されたが、彼らはまず如何にして財前に認められるかを考えていたという。
中学時代から読売ユースに所属。読売への入団テストでは、当時の小見幸隆コーチをして「ボールをもった瞬間に合格」と言わしめ、サッカーファンは「まだ見ぬ財前」に期待を高めた。高校時代は東京実業高校に通いながら読売ユースに所属し、1993年のU-17世界選手権ではU-17日本代表の中心選手として、リーグ戦3試合全てでマンオブザマッチを獲得しベスト8進出に貢献、大会ベストイレブンにも選出される。
1995年にヴェルディ川崎のトップチームに昇格し、直後にイタリア、セリエAの名門SSラツィオへと留学。ラツィオではプリマヴェーラ(ユース)所属だったが、トップチームの紅白戦にも出場した。また、アジアから唯一世界選抜チームに選出され出場した。
1996年にスペイン1部リーグ、リーガ・エスパニョーラのログロニェスに移籍。監督にもその実力を認められていたが(当時チームは下位に低迷していたが、監督に「うちには財前がいる。彼の怪我が治れば大丈夫」と言わしめていた)、リーグ戦への出場を前にして、靭帯断裂のため帰国を余儀なくされる(もし怪我がなければスペイン1部リーグ初の日本人選手となっていた可能性が高い)。
帰国から約1年後にV川崎にて公式戦初出場。クロアチア1部リーグ、1.HNLのリエカを経て、清水秀彦監督の誘いに応じて1999年にベガルタ仙台入団。ここでクラブの中心選手として存在感を発揮。2001年J2最終戦、京都パープルサンガ戦で試合終了直前にチームを初のJ1昇格に導く決勝ゴールを挙げた。
2005年シーズン終了後、仙台から戦力外通告を受け退団。翌2006年からは同じ東北をホームとするモンテディオ山形に移籍し、4年間プレーしたが2009年に戦力外通告を受け、同年シーズン終了を以って退団。
2009年のシーズン終了直後にタイ・プレミアリーグに所属するムアントン・ユナイテッドFCから獲得を前提とした練習参加のオファーが届いた。財前はすぐにタイへ飛び、プレ・シーズンマッチにもトップ下で出場し存在感を発揮、ムアントン・ユナイテッドへの正式加入が決まった[1]。
2011年シーズンより同リーグに所属するBECテロ・サーサナFCへ移籍した。
2012年1月19日、本人のブログ上で現役引退が発表され、引退後は古巣・仙台の育成コーチとしてサッカースクール指導や中学生以下のスカウトを担当していた[2]。
2016年4月、仙台市内にサッカースクールを開設した[3]。
所属クラブ
- ユース経歴
- 1989年 - 1991年 読売ジュニアユース
- 1992年 - 1994年 読売ユース
- プロ経歴
- 1995年 - 1998年 ヴェルディ川崎
- 1999年 NKリエカ
- 1999年途中 - 2005年 ベガルタ仙台
- 2006年 - 2009年 モンテディオ山形
- 2010年 ムアントン・ユナイテッドFC
- 2011年 BECテロ・サーサナFC
背番号10
上記のプレースタイルから1993年のU-17世界選手権で背番号10を背負っていた財前は、Jリーグでは仙台移籍2年目の2000年に初めて10番を背負い、以後チームの顔として2005年まで背負い続けた。Jリーグが1997年の固定背番号制を導入以後、同一チームで10番を背負う期間は澤登正朗(清水エスパルス・1997年-2005年)、藤田俊哉(ジュビロ磐田・1997年-2003年8月、2004年-2005年6月…FCユトレヒト移籍中は空き番)に次いで長かった。
山形へ移籍した2006年は、入団当時既に27番まで埋まっていたので、背番号は事務的に充てられたものと思われる28番だった。そして、山形移籍2年目の2007年、本橋卓巳から譲られる形で再び背番号10が与えられた。本橋はベテラン・永井篤志の仙台移籍で空いた8番を背負うこととなったが、奇しくも仙台時代の2000年、財前に10番を譲った中島浩司(元・サンフレッチェ広島)がベテラン・越後和男の引退で空いた8番を背負ったのと似たケースとなった。
2010年はタイのムアントン・ユナイテッドFCに移籍したが、背番号は28。「2+8=10」という、奇しくも山形入団初年度と同じ事態が起こった。
エピソード
- U17代表コーチの小見によれば、練習の手本は財前が示し、当時のチームメイト・中田英寿はそれを体育座りで真剣に見ていたという。さらに中田は「ザイ(財前)とサッカーをやっているときが一番楽しかった」と発言しており、同じく松田直樹もワールドユース時代「初めにザイに認められるか否かで、代表における立場が決まった」とも語っている。
- 1996年に短期留学していたSSラツィオ時代には元イタリア代表のアレッサンドロ・ネスタが在籍しており、練習中、財前は当時すでにラツィオのレギュラーで、イタリア代表としてもEURO96のメンバーに選ばれていたネスタにほとんどボールを触らせず、他のラツィオ選手たちの度胆を抜いた。2002年FIFAワールドカップでイタリア代表が仙台でキャンプを行い、ベガルタ仙台と練習試合を行った際、ネスタ自ら財前に握手を求めに行った。ちなみに財前は怪我のため、この練習試合には出場していなかった。
- 2007年7月21日のみちのくダービーでは先制点をアシストをする活躍を見せた。同年10月10日のみちのくダービーではPKながら古巣・仙台から初得点を挙げた。
- モンテディオ山形の木藤健太、鈴木亮平、渡辺匠(現在は退団)らと仲が良く、何度も食事に行く仲である。特に木藤とは仲が良く、自身のブログで彼女とまで紹介している。
- キャプテン翼に登場する「弓倉宣之」は、財前がモデルといわれる。
- 山形に小林伸二監督が就任してからは財前はFW(主にセカンドトップ)での起用が増えていたが、自身のブログでMFとしてプレーがしたい旨の事を思いとして書いていた。チームがJ1へ昇格後は「干されてもいいから左サイドで勝負させて欲しい」と首脳陣へ直訴し、小林監督は財前が得意としているトップ下で起用。その監督の起用に応えるかの様に途中出場ではあるものの、山形の切り札としてアシストを量産する事となった。
- 仙台時代の応援歌の原曲はゴダイゴの『ビューティフル・ネーム』、山形での応援歌の原曲はGOING STEADYの『愛しておくれ』だった。
- タイのリーグに在籍したが、パクチーが苦手である。
個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1995 | V川崎 | - | J | 0 | 0 | - | 0 | 0 | 0 | 0 | |
スペイン | リーグ戦 | 国王杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1996-97 | ログロニェス | - | プリメーラ | 0 | 0 | - | - | 0 | 0 | ||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1996 | V川崎 | - | J | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1997 | 42 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ||
1998 | 13 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | ||
クロアチア | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1998-99 | リエカ | - | 1.HNL | 0 | 0 | - | - | 0 | 0 | ||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1999 | 仙台 | 29 | J2 | 6 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 1 |
2000 | 10 | 20 | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | 21 | 2 | ||
2001 | 39 | 7 | 1 | 0 | 3 | 0 | 43 | 7 | |||
2002 | J1 | 18 | 0 | 6 | 0 | 2 | 1 | 26 | 1 | ||
2003 | 8 | 0 | 4 | 1 | 1 | 0 | 13 | 1 | |||
2004 | J2 | 36 | 5 | - | 0 | 0 | 36 | 5 | |||
2005 | 27 | 3 | - | 1 | 0 | 28 | 3 | ||||
2006 | 山形 | 28 | 35 | 4 | - | 0 | 0 | 35 | 4 | ||
2007 | 10 | 38 | 1 | - | 2 | 0 | 40 | 1 | |||
2008 | 21 | 0 | - | 0 | 0 | 21 | 0 | ||||
2009 | J1 | 11 | 0 | 4 | 0 | 2 | 0 | 17 | 0 | ||
タイ | リーグ戦 | リーグ杯 | FA杯 | 期間通算 | |||||||
2010 | ムアントン・ユナイテッド | 28 | タイ・プレミア | 11 | 0 | - | - | 11 | 0 | ||
2011 | テロ・サーサナ | 37 | 10 | 0 | - | - | 10 | 0 | |||
通算 | 日本 | J1 | 37 | 0 | 18 | 1 | 5 | 1 | 60 | 2 | |
日本 | J2 | 222 | 23 | 1 | 0 | 7 | 0 | 230 | 23 | ||
スペイン | セグンダ | 0 | 0 | - | - | 0 | 0 | ||||
クロアチア | 1.HNL | 0 | 0 | - | - | 0 | 0 | ||||
タイ | タイ・プレミア | 21 | 0 | - | - | 21 | 0 | ||||
総通算 | 280 | 23 | 19 | 1 | 12 | 1 | 311 | 25 |
代表歴
- 1992年U-16日本代表
- 1993年U-17日本代表
- 1993年 FIFA U-17選手権ベスト8、ベストイレブン選出 (日本選手として唯一)
- 1994年U-19日本代表
指導歴
- 2012年 - 2016年3月 ベガルタ仙台 スクールコーチ
脚注
外部リンク
- ZAIのブログ
- zai's blog - (旧ブログ)
- 財前サッカースクール
- 財前宣之 – FIFA主催大会成績