コンテンツにスキップ

「リビア王国」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
71行目: 71行目:
[[1963年]]、リビアは連邦制を廃止し、国名も'''リビア王国'''へ変更する。これに伴い中央政府の権限を強化し、国民間の格差是正に努めた。また、親欧米路線の転換を行い、民族感情の暴発を抑えようと試みた。しかし、時既に遅く、国王・政府に対する国民の不満は頂点に達していた。
[[1963年]]、リビアは連邦制を廃止し、国名も'''リビア王国'''へ変更する。これに伴い中央政府の権限を強化し、国民間の格差是正に努めた。また、親欧米路線の転換を行い、民族感情の暴発を抑えようと試みた。しかし、時既に遅く、国王・政府に対する国民の不満は頂点に達していた。


[[1969年]][[9月1日]]、首都トリポリで[[ムアンマル・アル=カッザーフィー]]率いる若手将校たちのクーデターが勃発。[[トルコ]]で療養中の国王イドリース1世は追放され、王政が廃止された。同年11月に公布された暫定憲法により、カッザーフィーを議長とする革命評議会が最高統治機関として設けられ、国名は'''[[大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国|リビア・アラブ共和国]]'''と改められた。
[[1969年]][[9月1日]]、首都トリポリで[[ムアンマル・アル=カッザーフィー]]率いる若手将校たちのクーデターが勃発。[[トルコ]]で療養中の国王イドリース1世は追放され、王政が廃止された。同年11月に公布された暫定憲法により、カッザーフィーを議長とする革命評議会が最高統治機関として設けられ、国名は'''[[大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国|リビア・アラブ共和国]]'''と改められた。この体制は冷戦時代を通じて継続され、[[2011年]]に西側[[NATO]]軍による空爆により追い詰められたカッザッフィーは、首都から逃亡した後、評議会軍によって潜伏先で捕えられ、その場で即決裁判により殺害された。約40年続いたこの体制は、国王不在のうちに旧[[ソビエト連邦]]が関与した上で行われたクーデターにより、国を乗っ取った[[ムアンマル・アル=カッザーフィー]]の独裁国家であり、政党も存在せず恐怖政治に近い反米思想に基づいていたジャマーヒリーヤ国は滅亡した。その後は[[2012年]]から国名を再度変更し、現在は単に「リビア国」と名乗っている


{{Commonscat|Kingdom of Libya}}
{{Commonscat|Kingdom of Libya}}

2016年1月7日 (木) 20:35時点における版

リビア王国
المملكة الليبية
al-Mamlakah al-Lībiyyah
トリポリタニア
キレナイカ首長国
フェザーン
1951年 - 1969年 リビア・アラブ共和国
リビアの国旗 リビアの国章
国旗国章
国歌: リビア、リビア、リビア
リビアの位置
公用語 アラビア語
首都 トリポリ
ベンガジ
アルバイダ
国王
1951年 - 1969年 イドリース1世
首相
1951年 - 1954年マフムード・アル=ムンタシル
1968年 - 1969年ワニス・アル=カッザーフィー
変遷
独立 1951年12月24日
滅亡1969年9月1日
通貨リビア・ポンド

リビア王国(リビアおうこく、アラビア語: المملكة الليبية‎, ラテン文字転写: al-Mamlakah al-Lībiyyah)は、かつてリビアに存在した王国。1951年イドリース1世国王に戴いて独立した。1963年までは連邦制であり、その間の国名はリビア連合王国であった。

キレナイカ19世紀以降広く信仰されて勢力を強め、オスマン帝国やイタリアに対して抵抗を続けてきたサヌーシー教団のサヌーシー家を王家とする。トリポリタニアトリポリと、本拠地キレナイカベンガジの2都市を首都とする複都制を採っており、国王と政府機関は季節によって両首都を使い分けていた。

歴史

リビアは16世紀以降、オスマン帝国の支配下にあったが、1911年イタリア王国植民地となる。第二次世界大戦では、連合国イギリス)と枢軸国(イタリア、ナチス・ドイツ)の間で激しい戦闘が行われ(北アフリカ戦線)、多くの血が流された。イタリアの敗戦により、戦後は英仏の共同統治領となった。

1949年6月、後に国王となるイドリース・アッ=サヌーシーキレナイカの独立を宣言(キレナイカ首長国)。続いてトリポリタニアフェザーンとの統一交渉も開始されたが、国家体制のあり方で対立。経済の中心であるトリポリを擁するトリポリタニアは中央集権国家を志向したが、一方でキレナイカとフェザーンは連邦制を主張した。1951年、国連の決議により、最終的にリビアは3州の連合王国として独立し、イドリースはイドリース1世として王位に就いた。また、首都はトリポリとベンガジ複都制であり、外交や国防を担当する中央政府の下、3つの州政府に大幅な内政自治権が与えられた。

国王イドリース1世は親欧米路線を採り、基地を提供して経済援助を引き出した。また、リビアで石油採掘が始まると、莫大なオイルマネーを得るようになる。しかし、利益は王家とその周辺が吸収して国民全体に行き渡らず、トリポリタニアとキレナイカの地域対立も激しくなるなど、内政は不安定であった。更に、1956年に隣国エジプト第二次中東戦争が発生すると、リビアでも反欧米の汎アラブ主義が浸透し始め、親欧米の国王に対する民衆の不満は高まっていった。

1963年、リビアは連邦制を廃止し、国名もリビア王国へ変更する。これに伴い中央政府の権限を強化し、国民間の格差是正に努めた。また、親欧米路線の転換を行い、民族感情の暴発を抑えようと試みた。しかし、時既に遅く、国王・政府に対する国民の不満は頂点に達していた。

1969年9月1日、首都トリポリでムアンマル・アル=カッザーフィー率いる若手将校たちのクーデターが勃発。トルコで療養中の国王イドリース1世は追放され、王政が廃止された。同年11月に公布された暫定憲法により、カッザーフィーを議長とする革命評議会が最高統治機関として設けられ、国名はリビア・アラブ共和国と改められた。この体制は冷戦時代を通じて継続され、2011年に西側NATO軍による空爆により追い詰められたカッザッフィーは、首都から逃亡した後、評議会軍によって潜伏先で捕えられ、その場で即決裁判により殺害された。約40年続いたこの体制は、国王不在のうちに旧ソビエト連邦が関与した上で行われたクーデターにより、国を乗っ取ったムアンマル・アル=カッザーフィーの独裁国家であり、政党も存在せず恐怖政治に近い反米思想に基づいていたジャマーヒリーヤ国は滅亡した。その後は2012年から国名を再度変更し、現在は単に「リビア国」と名乗っている。