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'''藤田 健'''(ふじた けん、[[1979年]][[8月27日]] - )は、[[静岡県]][[浜松市]]出身の[[サッカー選手]]。金髪とヒゲがトレードマークである。 |
'''藤田 健'''(ふじた けん、[[1979年]][[8月27日]] - )は、[[静岡県]][[浜松市]]出身の[[サッカー選手]]。金髪とヒゲがトレードマークである。 |
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== プロフィール == |
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2011年、[[リーガ・インドネシア]]のトップ・リーグ、インドネシア・スーパーリーグの[[スリウィジャヤFC]]のテストに参加していたが、契約には至らなかった<ref>[http://d.hatena.ne.jp/rahmat/20111231/1325343122 スリウィジャヤFC、日本人を含むセレクション2選手と契約を結ばず]</ref>。 |
2011年、[[リーガ・インドネシア]]のトップ・リーグ、インドネシア・スーパーリーグの[[スリウィジャヤFC]]のテストに参加していたが、契約には至らなかった<ref>[http://d.hatena.ne.jp/rahmat/20111231/1325343122 スリウィジャヤFC、日本人を含むセレクション2選手と契約を結ばず]</ref>。 |
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== エピソード == |
== エピソード == |
2012年3月12日 (月) 03:53時点における版
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名前 | ||||||
カタカナ | フジタ ケン | |||||
ラテン文字 | FUJITA Ken | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1979年8月27日(45歳) | |||||
出身地 | 静岡県浜松市 | |||||
身長 | 167cm | |||||
体重 | 58kg | |||||
選手情報 | ||||||
在籍チーム | JKタリナ・カレフ | |||||
ポジション | MF | |||||
利き足 | 両足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 (得点) | ||||
1998 2001-2010 2012- |
ジュビロ磐田 ヴァンフォーレ甲府 JKタリナ・カレフ |
0 (0) 354 (41) () | ||||
1. 国内リーグ戦に限る。2010年2月27日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
藤田 健(ふじた けん、1979年8月27日 - )は、静岡県浜松市出身のサッカー選手。金髪とヒゲがトレードマークである。
プロフィール
小学生時代からテクニシャンとして知られ、幼少期には、藤田のプレーを見た小野伸二がサッカーを止めようとした、というエピソードを持つ。
1998年に河村崇大らと共に磐田ユースから昇格(ただしプロではなくアマチュア登録)した。しかしわずか数ヶ月で「進路変更のため」退団する。その後ブラジルへ留学したり、元磐田の先輩である鈴木将方の所属する浜松のフットサルクラブでのプレーを経て、2000年オフに甲府のセレクションに合格し、プロサッカー選手となる。
当初は器用さからサイドバックなどでプレーしていたこともあったが、次第に倉貫一毅と共に多彩な甲府の攻撃を支える司令塔として目されるようになり、甲府の躍進に貢献する。2002年からエースナンバーである10番を着用し続けるなど甲府の顔として君臨し続けてきたが、2010年のシーズンを最後に戦力外通告を受け、退団。
2011年、リーガ・インドネシアのトップ・リーグ、インドネシア・スーパーリーグのスリウィジャヤFCのテストに参加していたが、契約には至らなかった[1]。
特徴・評価
小柄だが背筋を伸ばし狙い済ましたパスを送り前線を操る。すばしっこさもある。また本人が「利き脚は両足」と言うほどで、実際左右どちらの脚も同じように使え、フリーキックもどちらの脚からでも繰り出す。これは甲府の強力な武器になっている。足のサイズは「24.5cm」しかない。その小柄な体格のためか接触プレーには滅法弱い。近年は運動量の多さを生かしてDFラインのカバーに回るなど守備面での貢献度が高くなっている。
足首に爆弾を抱えており、ベストコンディションで出場できる試合は稀である。藤田に代わりうる選手がいないことから怪我をおして出場せざるを得ない状況であったが、2008年のシーズン後にようやく手術を受けている。
素質は生粋の天才肌で歴代の監督も「天才」と認め、代表中心選手よりも技術があると言われている。
J1の優勝チームや海外からのオファーもあったが、本人は「細く長く」を希望しチームに長く在籍していた。
エピソード
- 2008年度シーズンより「FKシート」として山梨県の父子家庭をAA席に招待している。
- 兼ねてから坊主+ヒゲのスタイルがトレードマークで、10年近く風貌が変わっていない。
- チームメイトの吉田豊、井澤惇と共に「藤田組」を結成し、周囲からは「社長」又は「ドン」と呼ばれていた。最近は片桐淳至、ハーフナー・マイクも組員となり藤田に認められた選手が甲府の主力選手となり飛躍している。
- 2008年11月からオフィシャルブログを開始したが、1年以上経過した現在でも全く更新されていない。
- 2010年も夏場の8月を除いてはほぼフル出場状態であったが、シーズン最終節前に戦力外通告を受けたことが報道され、その後クラブから正式に発表された。戦力外の理由として年齢による衰えや以前から遅刻癖があるなど普段の態度に問題があると判断されたためであるが、経営危機時から甲府の司令塔としてチームを引っ張ってきた功労者の藤田の戦力外にしたことはサポーターにとって衝撃的であり、その後戦力外の撤回を求める署名が1万7,000人分集まりクラブに提出された。
所属クラブ
- 1986年 - 1991年 浜松市立広沢小学校
- 1992年 - 1994年 浜松市立中部中学校
- 1995年 - 1997年 ジュビロ磐田ユース
- 1998年 ジュビロ磐田
- 2001年 - 2010年 ヴァンフォーレ甲府
- 2012年 - JKタリナ・カレフ
個人成績
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国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1998 | 磐田 | 35 | J | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
2001 | 甲府 | 9 | J2 | 35 | 4 | 2 | 0 | 3 | 0 | 40 | 4 |
2002 | 10 | 33 | 5 | - | 2 | 0 | 35 | 5 | |||
2003 | 39 | 9 | - | 1 | 0 | 40 | 9 | ||||
2004 | 28 | 2 | - | 1 | 0 | 29 | 2 | ||||
2005 | 41 | 10 | - | 2 | 0 | 43 | 10 | ||||
2006 | J1 | 26 | 2 | 1 | 0 | 3 | 1 | 30 | 3 | ||
2007 | 32 | 2 | 7 | 0 | 1 | 0 | 40 | 2 | |||
2008 | J2 | 38 | 3 | - | 1 | 0 | 39 | 3 | |||
2009 | 50 | 2 | - | 2 | 0 | 52 | 2 | ||||
2010 | 32 | 2 | - | 1 | 0 | 33 | 2 | ||||
エストニア | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2012 | タリナカレフ | メスタリリーガ | |||||||||
通算 | 日本 | J1 | 58 | 4 | 8 | 0 | 4 | 1 | 70 | 5 | |
日本 | J2 | 296 | 37 | 2 | 0 | 11 | 0 | 309 | 37 | ||
エストニア | メスタリリーガ | ||||||||||
総通算 | 354 | 41 | 10 | 0 | 15 | 1 | 379 | 42 |
その他の公式戦
- 2005年 J1・J2入れ替え戦(対柏レイソル戦):2試合0得点