「耶律那也」の版間の差分
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南剋の耶律斡里の子として生まれた。父が[[西夏]]に対する征戦中に戦没したため、9歳で諸衛小将軍の位を加えられ、題里[[司徒]]となった。まもなく宿直官として召された。[[太康 (遼)|太康]]3年([[1077年]])、遙輦剋となった。[[太安 (遼)|太安]]2年([[1086年]])、知右夷離畢事となった。太安4年([[1088年]])、同知南院枢密使事となった。太安5年([[1089年]])、再び知右夷離畢事となった。太安9年([[1093年]])、倒塌嶺[[節度使]]として出向した。太安10年([[1094年]])冬、[[ケレイト|北阻卜]]の首長の磨古斯が反抗すると、那也は招討都監の[[耶律胡呂]]とともに精鋭の騎兵2千を率いて磨古斯を討ち、撃破した。那也は耶律胡呂を漢人行宮副部署に推薦した。[[寿昌]]元年([[1095年]])、達理得・抜思母らを討って功績を挙げ、烏古敵烈部統軍使に転じた。任期が終わった後、部民が留任を請願したため、再任を許された。[[乾統 (遼)|乾統]]6年([[1106年]])、[[大定府|中京]][[留守官|留守]]に任じられた。北院大王に転じて、死去した。 |
南剋の耶律斡里の子として生まれた。父が[[西夏]]に対する征戦中に戦没したため、9歳で諸衛小将軍の位を加えられ、題里[[司徒]]となった。まもなく宿直官として召された。[[太康 (遼)|太康]]3年([[1077年]])、遙輦剋となった。[[太安 (遼)|太安]]2年([[1086年]])、知右夷離畢事となった。太安4年([[1088年]])、同知南院枢密使事となった。太安5年([[1089年]])、再び知右夷離畢事となった。 |
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太安9年([[1093年]])、倒塌嶺[[節度使]]として出向した。太安10年([[1094年]])冬、[[ケレイト|北阻卜]]の首長の磨古斯が反抗すると、那也は招討都監の[[耶律胡呂]]とともに精鋭の騎兵2千を率いて磨古斯を討ち、撃破した。那也は耶律胡呂を漢人行宮副部署に推薦した。[[寿昌]]元年([[1095年]])、達理得・抜思母らを討って功績を挙げ、烏古敵烈部統軍使に転じた。任期が終わった後、部民が留任を請願したため、再任を許された。 |
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[[乾統 (遼)|乾統]]6年([[1106年]])、[[大定府|中京]][[留守官|留守]]に任じられた。北院大王に転じて、死去した。 |
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== 伝記資料 == |
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2024年12月8日 (日) 10:24時点における最新版
耶律那也(やりつ なや、生没年不詳)は、遼(契丹)の軍人。字は移斯輦。六院部夷離菫の耶律蒲古只の末裔。
経歴
[編集]南剋の耶律斡里の子として生まれた。父が西夏に対する征戦中に戦没したため、9歳で諸衛小将軍の位を加えられ、題里司徒となった。まもなく宿直官として召された。太康3年(1077年)、遙輦剋となった。太安2年(1086年)、知右夷離畢事となった。太安4年(1088年)、同知南院枢密使事となった。太安5年(1089年)、再び知右夷離畢事となった。
太安9年(1093年)、倒塌嶺節度使として出向した。太安10年(1094年)冬、北阻卜の首長の磨古斯が反抗すると、那也は招討都監の耶律胡呂とともに精鋭の騎兵2千を率いて磨古斯を討ち、撃破した。那也は耶律胡呂を漢人行宮副部署に推薦した。寿昌元年(1095年)、達理得・抜思母らを討って功績を挙げ、烏古敵烈部統軍使に転じた。任期が終わった後、部民が留任を請願したため、再任を許された。
乾統6年(1106年)、中京留守に任じられた。北院大王に転じて、死去した。
伝記資料
[編集]- 『遼史』巻94 列伝第24