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== 来歴 ==
== 来歴 ==
[[殺陣師]]の大内龍生([[大野剣友会]]創設者・[[大野幸太郎]]の師匠)の次男<ref name="fukusima"/>。[[京都府]]で生まれ、幼少期より[[神奈川県]][[川崎市]]で過ごす<ref name = "uchusen" />。子供の頃から少年剣劇団の一員として全国を巡業し舞台に立っていた<ref name="sanka1">{{Harvnb|キカイダー讃歌|1997|loc=第一楽章 真実イチロー|p=76-77}}</ref>。中学進学後は芝居から遠ざかっていたが、高校生になると再び芸能界に憧れる気持ちが強くなり、大学進学と同時に[[劇団文化座]]の研究生となる<ref name="sanka2" />。やがて母親の知人だった[[東映]]のプロデューサー・高橋昌一の推薦で<ref name="sanka2">{{Harvnb|キカイダー讃歌|1997|loc=ニューフェイスとしてデビュー|p=77-79}}</ref>、[[1962年]]に[[東映ニューフェイス]]第10期生となる<ref name="fukusima"/><ref name="yomiuri">『読売新聞』1967年5月21日付朝刊、10面。</ref><ref name="sanka2" /><ref>東映の友 1962年4月号 45頁。</ref>。同期には[[小林稔侍]]<ref name="sanka2" />、[[吉田豊明]]らがいた。
[[殺陣師]]の[[大内龍生]]([[大野剣友会]]創設者・[[大野幸太郎]]の師匠)の次男<ref name="fukusima"/>。[[京都府]]で生まれ、幼少期より[[神奈川県]][[川崎市]]で過ごす<ref name = "uchusen" />。子供の頃から少年剣劇団の一員として全国を巡業し舞台に立っていた<ref name="sanka1">{{Harvnb|キカイダー讃歌|1997|loc=第一楽章 真実イチロー|p=76-77}}</ref>。中学進学後は芝居から遠ざかっていたが、高校生になると再び芸能界に憧れる気持ちが強くなり、大学進学と同時に[[劇団文化座]]の研究生となる<ref name="sanka2" />。やがて母親の知人だった[[東映]]のプロデューサー・[[高橋昌一]]の推薦で<ref name="sanka2">{{Harvnb|キカイダー讃歌|1997|loc=ニューフェイスとしてデビュー|p=77-79}}</ref>、[[1962年]]に[[東映ニューフェイス]]第10期生となる<ref name="fukusima"/><ref name="yomiuri">『読売新聞』1967年5月21日付朝刊、10面。</ref><ref name="sanka2" /><ref>東映の友 1962年4月号 45頁。</ref>。同期には[[小林稔侍]]<ref name="sanka2" />、[[吉田豊明]]らがいた。


ニューフェイスに合格後は[[俳優座]]預かりという形になり、しばらくは時代劇の舞台に出演していた<ref name="sanka2" />。[[1963年]]、東映映画『白い熱球』でデビュー<ref name="sanka2" />。その後は[[テレビドラマ]]中心に活動し、『[[戦友 (1963年のテレビドラマ)|戦友]]』([[テレビ朝日|NET]])ではレギュラーを一年間務め、翌年『[[風来物語]]』で主役の書生を演じる<ref name="sanka2" />。初主演となった『風来物語』であったが、当時のNETはネット局が東京と長崎ぐらいしかなかったため、池田自身が有名になるまでには至らなかった<ref name="vow1" />。東映を離れたのち、[[天知茂]]のプロダクション設立に参加し<ref name="vow1">{{Cite book|和書|year=1994|title=怪獣VOW|chapter=イチロー 正義を語る|page=76|publisher=[[宝島社]]|id=ISBN 4-7966-0880-X}}</ref>、たつみプロダクションに所属<ref name="profile1" />。[[1969年]]からは[[国際放映]]制作『[[鬼平犯科帳 (松本幸四郎)|鬼平犯科帳]]』に2年間レギュラー出演した<ref name="sanka2" />。
ニューフェイスに合格後は[[俳優座]]預かりという形になり、しばらくは時代劇の舞台に出演していた<ref name="sanka2" />。[[1963年]]、東映映画『白い熱球』でデビュー<ref name="sanka2" />。その後は[[テレビドラマ]]中心に活動し、『[[戦友 (1963年のテレビドラマ)|戦友]]』([[テレビ朝日|NET]])ではレギュラーを一年間務め、翌年『[[風来物語]]』で主役の書生を演じる<ref name="sanka2" />。初主演となった『風来物語』であったが、当時のNETはネット局が東京と長崎ぐらいしかなかったため、池田自身が有名になるまでには至らなかった<ref name="vow1" />。東映を離れたのち、[[天知茂]]のプロダクション設立に参加し<ref name="vow1">{{Cite book|和書|year=1994|title=怪獣VOW|chapter=イチロー 正義を語る|page=76|publisher=[[宝島社]]|id=ISBN 4-7966-0880-X}}</ref>、たつみプロダクションに所属<ref name="profile1" />。[[1969年]]からは[[国際放映]]制作『[[鬼平犯科帳 (松本幸四郎)|鬼平犯科帳]]』に2年間レギュラー出演した<ref name="sanka2" />。
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[[1971年]]、[[円谷プロダクション|円谷プロ]]で[[ウルトラシリーズ]]が再開されることを聞きつけ、マネージャーを通して[[円谷一]]に相談し、『[[帰ってきたウルトラマン]](以下、帰マン)』([[TBSテレビ|TBS]])でレギュラー・南猛隊員を演じることとなる<ref name="sanka3">{{Harvnb|キカイダー讃歌|1997|loc=『帰ってきたウルトラマン』の頃|p=79-81}}</ref>。翌年には再び円谷プロの『[[緊急指令10-4・10-10]]』(NET)に花形一平役でレギュラー出演した<ref name="sanka3" />。[[1973年]]には、古巣の東映で『[[人造人間キカイダー]]』の続編が制作されることを知り、プロデューサー・[[吉川進]]に自ら売り込みをかけ、『[[キカイダー01]]』の主人公・イチロー役に抜擢される<ref name="sanka4">{{Harvnb|キカイダー讃歌|1997|loc=そしてイチローへ|p=81-82}}</ref>。『01』終了後は『キカイダー』とともに[[ハワイ州]]のKIKU-TVに輸出され、日本国内を凌駕する一大ムーブメントに発展<ref name = "uchusen" />。キカイダー=ジロー役の[[伴大介]]とともに現地のイベントに招かれ、超満員のファンに迎えられた<ref name = "uchusen" />。
[[1971年]]、[[円谷プロダクション|円谷プロ]]で[[ウルトラシリーズ]]が再開されることを聞きつけ、マネージャーを通して[[円谷一]]に相談し、『[[帰ってきたウルトラマン]](以下、帰マン)』([[TBSテレビ|TBS]])でレギュラー・南猛隊員を演じることとなる<ref name="sanka3">{{Harvnb|キカイダー讃歌|1997|loc=『帰ってきたウルトラマン』の頃|p=79-81}}</ref>。翌年には再び円谷プロの『[[緊急指令10-4・10-10]]』(NET)に花形一平役でレギュラー出演した<ref name="sanka3" />。[[1973年]]には、古巣の東映で『[[人造人間キカイダー]]』の続編が制作されることを知り、プロデューサー・[[吉川進]]に自ら売り込みをかけ、『[[キカイダー01]]』の主人公・イチロー役に抜擢される<ref name="sanka4">{{Harvnb|キカイダー讃歌|1997|loc=そしてイチローへ|p=81-82}}</ref>。『01』終了後は『キカイダー』とともに[[ハワイ州]]のKIKU-TVに輸出され、日本国内を凌駕する一大ムーブメントに発展<ref name = "uchusen" />。キカイダー=ジロー役の[[伴大介]]とともに現地のイベントに招かれ、超満員のファンに迎えられた<ref name = "uchusen" />。


俳優業のかたわら、東京・[[三軒茶屋]]で「ゼロワン・チェーン」という大判焼きの店を経営していたことがあり、「巡礼」に訪れるファンも多かった<ref name>{{Cite web|和書|url=https://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20100615/enn1006151156000-n1.htm|title=変身前も頼れるお兄さん『キカイダー01』池田駿介さん逝く |publisher=[[夕刊フジ|zakzak]] |accessdate=2018-10-27}}</ref>。[[1990年代]]には洋服メーカー・[[ゼビオホールディングス|ゼビー]]のレギュラーキャラクターを務め、[[コマーシャルメッセージ|CM]]にも出演<ref name="vow2">{{Cite book|和書|year=1994|title=怪獣VOW|chapter=イチロー 正義を語る|pages=74-75|publisher=[[宝島社]]|id=ISBN 4-7966-0880-X}}</ref>。晩年は主にCMや舞台のほか、『帰マン』や『キカイダー』関連のイベントなどで活躍していた。
俳優業のかたわら、東京・[[三軒茶屋]]で「ゼロワン・チェーン」という[[大判焼き]]の店を経営していたことがあり、「巡礼」に訪れるファンも多かった<ref name>{{Cite web|和書|url=https://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20100615/enn1006151156000-n1.htm|title=変身前も頼れるお兄さん『キカイダー01』池田駿介さん逝く |publisher=[[夕刊フジ|zakzak]] |accessdate=2018-10-27}}</ref>。[[1990年代]]には洋服メーカー・[[ゼビオホールディングス|ゼビー]]のレギュラーキャラクターを務め、[[コマーシャルメッセージ|CM]]にも出演<ref name="vow2">{{Cite book|和書|year=1994|title=怪獣VOW|chapter=イチロー 正義を語る|pages=74-75|publisher=[[宝島社]]|id=ISBN 4-7966-0880-X}}</ref>。晩年は主にCMや舞台のほか、『帰マン』や『キカイダー』関連のイベントなどで活躍していた。

[[2010年]][[6月11日]]午前3時10分、[[胃癌]]のため千葉県の病院で死去<ref>[https://web.archive.org/web/20100617025734/http://news24.jp/entertainment/news/1612402.html 【訃報】「キカイダー01」の池田駿介さん、胃がんのため逝く] 日テレNEWS24 2010年6月14日閲覧</ref><ref>[http://www.47news.jp/CN/201006/CN2010061301000554.html 池田駿介氏死去 俳優] 共同通信 47NEWS 2010年6月13日閲覧</ref>。{{没年齢|1940|11|11|2010|6|11}}。[[6月15日]]に神奈川県川崎市の登戸やすらぎ会館で通夜が営まれた<ref>[https://news.ntv.co.jp/category/culture/280047 池田駿介さん雨の通夜。伴大介「日本の特撮作品の…」]</ref>。[[6月16日]]の告別式では東映の同期だった小林稔侍が弔辞を読み、故人を偲んだ。祭壇には撮影で実際に使用されたイチローのヘルメットとトランペットが飾られ、献花の際は『帰マン』の主題歌、[[出棺]]の際には『01』のテーマ曲が流れた<ref name = "uchusen" />。


[[2010年]][[6月11日]]午前3時10分、[[胃癌]]のため千葉県の病院で死去<ref>[https://web.archive.org/web/20100617025734/http://news24.jp/entertainment/news/1612402.html 【訃報】「キカイダー01」の池田駿介さん、胃がんのため逝く] 日テレNEWS24 2010年6月14日閲覧</ref><ref>[http://www.47news.jp/CN/201006/CN2010061301000554.html 池田駿介氏死去 俳優] 共同通信 47NEWS 2010年6月13日閲覧</ref>。{{没年齢|1940|11|11|2010|6|11}}。[[6月15日]]に神奈川県川崎市の登戸やすらぎ会館で通夜が営まれた<ref>[https://news.ntv.co.jp/category/culture/280047 池田駿介さん雨の通夜。伴大介「日本の特撮作品の…」]</ref>。[[6月16日]]の告別式では東映の同期だった小林稔侍が弔辞を読み、故人を偲んだ。祭壇には撮影で実際に使用されたイチローのヘルメットとトランペットが飾られ、献花の際は『帰マン』の主題歌、[[出棺]]の際には『01』のテーマ曲が流れた<ref name = "uchusen" />。『帰マン』で共演した[[団時朗]]と[[西田健]]、そして伴大介が追悼の辞を雑誌『[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]』Vol.129『追悼:池田駿介』の特集記事に寄せている<ref name = "uchusen" />。3人とも偶然にも、池田が死去する直前に別のインタビューに答えていた。7月に放送予定だった東映チャンネルの『ピンスポ』と2010年8月発売の東映ヒーローMAXのインタビューに答える予定で承諾も得ていたが、収録日予定日だった5月下旬に再入院してそのまま死去したため、どちらも叶わなかった<ref>2010年、東映ヒーローMAX,8月号より</ref>。生前に「俺が死んだらハワイの海に(骨を)まいてくれ」と語っており<ref>[https://web.archive.org/web/20180504090125/http://www.news24.jp/entertainment/news/1612439.html 池田駿介さん告別式…同期の小林稔侍「何とも言えない気持ち」]- 日テレNEWS24、2010年6月16日より。</ref>、誕生日である11月11日にハワイでお別れ会と散骨が行われた。
『帰マン』で共演した[[団時朗]]と[[西田健]]、そして伴大介が追悼の辞を雑誌『[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]』Vol.129『追悼:池田駿介』の特集記事に寄せている<ref name = "uchusen" />。3人とも偶然にも、池田が死去する直前に別のインタビューに答えていた。7月に放送予定だった東映チャンネルの『ピンスポ』と2010年8月発売の東映ヒーローMAXのインタビューに答える予定で承諾も得ていたが、収録日予定日だった5月下旬に再入院してそのまま死去したため、どちらも叶わなかった<ref>2010年、東映ヒーローMAX,8月号より</ref>。生前に「俺が死んだらハワイの海に(骨を)まいてくれ」と語っており<ref>[https://web.archive.org/web/20180504090125/http://www.news24.jp/entertainment/news/1612439.html 池田駿介さん告別式…同期の小林稔侍「何とも言えない気持ち」]- 日テレNEWS24、2010年6月16日より。</ref>、誕生日である11月11日にハワイでお別れ会と散骨が行われた。


== 人物・エピソード ==
== 人物・エピソード ==
趣味は[[サイクリング]]<ref name="sanka9">{{Harvnb|キカイダー讃歌|1997|p=186}}</ref>。特技は[[柔道]](三段)で、高校時代より選手として活躍<ref name="fukusima"/>。
*趣味は[[サイクリング]]<ref name="sanka9">{{Harvnb|キカイダー讃歌|1997|p=186}}</ref>。特技は[[柔道]](三段)で、高校時代より選手として活躍<ref name="fukusima"/>。


『帰マン』共演者では団と西田以外では[[三井恒]]と仲が良く、放送当時は4人で遊びに出かけていた<ref>『福島民友』1971年5月26日付朝刊、8面。</ref>。また、『帰マン』DVDの制作時に伊吹隊長役の[[根上淳]]を訪れており、当時のことを語り合ううちに感極まって涙を流している(当初は郷秀樹役の候補の一人だった)。団と西田は、1992年に行われた[[京本政樹]]との対談の中で、池田の印象について団は「年上だけど、付き合うと弟みたいな感じ。その一方で物の見方が本当にまっすぐだった」と証言し、一方西田は「芝居の取り組み方が違っていて、いつでも自分なりに見せようと努力していた」と、それぞれ証言している<ref>{{Cite book |和書 |author=京本政樹|authorlink=京本政樹 |year=1992-7-1|title=京本政樹のHERO考証学 |page=135|publisher=バンダイ|series=B-CLUB SPECIAL |isbn=489189234X }}</ref>。
*『帰マン』共演者では団と西田以外では[[三井恒]]と仲が良く、放送当時は4人で遊びに出かけていた<ref>『福島民友』1971年5月26日付朝刊、8面。</ref>。また、『帰マン』DVDの制作時に伊吹隊長役の[[根上淳]]を訪れており、当時のことを語り合ううちに感極まって涙を流している(当初は郷秀樹役の候補の一人だった)。団と西田は、1992年に行われた[[京本政樹]]との対談の中で、池田の印象について団は「年上だけど、付き合うと弟みたいな感じ。その一方で物の見方が本当にまっすぐだった」と証言し、一方西田は「芝居の取り組み方が違っていて、いつでも自分なりに見せようと努力していた」と、それぞれ証言している<ref>{{Cite book |和書 |author=京本政樹|authorlink=京本政樹 |year=1992-7-1|title=京本政樹のHERO考証学 |page=135|publisher=バンダイ|series=B-CLUB SPECIAL |isbn=489189234X }}</ref>。


書籍『キカイダー賛歌』を伴とともに執筆・出版するため、挨拶を兼ねて[[石ノ森章太郎]]の自宅にインタビューに訪れた<ref name="sanka10">{{Harvnb|キカイダー讃歌|1997|p=158}}</ref>。池田は原作を読まずに役作りを考えたため、[[鞍馬天狗 (小説)|鞍馬天狗]]をモチーフとした毅然としたヒーロー像を作り上げていった<ref name="sanka11">{{Harvnb|キカイダー讃歌|1997|p=164-165}}</ref>。だが、後年になって原作を知り、原作のイチローと自分の役作りで出来上がったイチロー像があまりにもかけ離れていたことにショックと後悔の念があり、悩んでいたという<ref name="sanka11" />。それを聞いた石ノ森は「原作はあくまでも原作。テレビ版のキャラクターは役者の個性に合わせればいいんだから」と答え、思わず池田は涙してしまった<ref name="sanka11" />。
*書籍『キカイダー賛歌』を伴とともに執筆・出版するため、挨拶を兼ねて[[石ノ森章太郎]]の自宅にインタビューに訪れた<ref name="sanka10">{{Harvnb|キカイダー讃歌|1997|p=158}}</ref>。池田は原作を読まずに役作りを考えたため、[[鞍馬天狗 (小説)|鞍馬天狗]]をモチーフとした毅然としたヒーロー像を作り上げていった<ref name="sanka11">{{Harvnb|キカイダー讃歌|1997|p=164-165}}</ref>。だが、後年になって原作を知り、原作のイチローと自分の役作りで出来上がったイチロー像があまりにもかけ離れていたことにショックと後悔の念があり、悩んでいたという<ref name="sanka11" />。それを聞いた石ノ森は「原作はあくまでも原作。テレビ版のキャラクターは役者の個性に合わせればいいんだから」と答え、思わず池田は涙してしまった<ref name="sanka11" />。


晩年、『帰マン』や『01』のファンから声をかけられると「気持ちが当時に戻ってシャキッとした自分になる。年をとったイチローや南隊員を見せたくない」という気持ちになると語っていた<ref name = "uchusen" />。
*晩年、『帰マン』や『01』のファンから声をかけられると「気持ちが当時に戻ってシャキッとした自分になる。年をとったイチローや南隊員を見せたくない」という気持ちになると語っていた<ref name = "uchusen" />。


== 出演作品 ==
== 出演作品 ==

2024年10月12日 (土) 03:44時点における最新版

いけだ しゅんすけ
池田 駿介
本名 池田 紀生
生年月日 (1940-11-11) 1940年11月11日
没年月日 (2010-06-11) 2010年6月11日(69歳没)
出生地 日本の旗 日本京都府
出身地 日本の旗 日本神奈川県川崎市
死没地 日本の旗 日本千葉県
身長 174 cm[1]
職業 俳優
モデル
活動期間 1962年 - 2010年
活動内容 1962年東映ニューフェイス
主な作品
テレビドラマ
風来物語
鬼平犯科帳
帰ってきたウルトラマン
緊急指令10-4・10-10
キカイダー01
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池田 駿介(いけだ しゅんすけ、本名:池田 紀生(いけだ のりお)[1][2][3]1940年11月11日[2] - 2010年6月11日[2])は、日本俳優モデル

神奈川県川崎市出身[4](出生は京都府[2])。法政大学第二高等学校法政大学卒業[1][3][5]。SOS(ソサエティ・オブ・スタイル)モデルエージェンシーに所属していた。

来歴

[編集]

殺陣師大内龍生大野剣友会創設者・大野幸太郎の師匠)の次男[3]京都府で生まれ、幼少期より神奈川県川崎市で過ごす[2]。子供の頃から少年剣劇団の一員として全国を巡業し舞台に立っていた[6]。中学進学後は芝居から遠ざかっていたが、高校生になると再び芸能界に憧れる気持ちが強くなり、大学進学と同時に劇団文化座の研究生となる[5]。やがて母親の知人だった東映のプロデューサー・高橋昌一の推薦で[5]1962年東映ニューフェイス第10期生となる[3][4][5][7]。同期には小林稔侍[5]吉田豊明らがいた。

ニューフェイスに合格後は俳優座預かりという形になり、しばらくは時代劇の舞台に出演していた[5]1963年、東映映画『白い熱球』でデビュー[5]。その後はテレビドラマ中心に活動し、『戦友』(NET)ではレギュラーを一年間務め、翌年『風来物語』で主役の書生を演じる[5]。初主演となった『風来物語』であったが、当時のNETはネット局が東京と長崎ぐらいしかなかったため、池田自身が有名になるまでには至らなかった[8]。東映を離れたのち、天知茂のプロダクション設立に参加し[8]、たつみプロダクションに所属[1]1969年からは国際放映制作『鬼平犯科帳』に2年間レギュラー出演した[5]

1971年円谷プロウルトラシリーズが再開されることを聞きつけ、マネージャーを通して円谷一に相談し、『帰ってきたウルトラマン(以下、帰マン)』(TBS)でレギュラー・南猛隊員を演じることとなる[9]。翌年には再び円谷プロの『緊急指令10-4・10-10』(NET)に花形一平役でレギュラー出演した[9]1973年には、古巣の東映で『人造人間キカイダー』の続編が制作されることを知り、プロデューサー・吉川進に自ら売り込みをかけ、『キカイダー01』の主人公・イチロー役に抜擢される[10]。『01』終了後は『キカイダー』とともにハワイ州のKIKU-TVに輸出され、日本国内を凌駕する一大ムーブメントに発展[2]。キカイダー=ジロー役の伴大介とともに現地のイベントに招かれ、超満員のファンに迎えられた[2]

俳優業のかたわら、東京・三軒茶屋で「ゼロワン・チェーン」という大判焼きの店を経営していたことがあり、「巡礼」に訪れるファンも多かった[11]1990年代には洋服メーカー・ゼビーのレギュラーキャラクターを務め、CMにも出演[12]。晩年は主にCMや舞台のほか、『帰マン』や『キカイダー』関連のイベントなどで活躍していた。

2010年6月11日午前3時10分、胃癌のため千葉県の病院で死去[13][14]。69歳没。6月15日に神奈川県川崎市の登戸やすらぎ会館で通夜が営まれた[15]6月16日の告別式では東映の同期だった小林稔侍が弔辞を読み、故人を偲んだ。祭壇には撮影で実際に使用されたイチローのヘルメットとトランペットが飾られ、献花の際は『帰マン』の主題歌、出棺の際には『01』のテーマ曲が流れた[2]

『帰マン』で共演した団時朗西田健、そして伴大介が追悼の辞を雑誌『宇宙船』Vol.129『追悼:池田駿介』の特集記事に寄せている[2]。3人とも偶然にも、池田が死去する直前に別のインタビューに答えていた。7月に放送予定だった東映チャンネルの『ピンスポ』と2010年8月発売の東映ヒーローMAXのインタビューに答える予定で承諾も得ていたが、収録日予定日だった5月下旬に再入院してそのまま死去したため、どちらも叶わなかった[16]。生前に「俺が死んだらハワイの海に(骨を)まいてくれ」と語っており[17]、誕生日である11月11日にハワイでお別れ会と散骨が行われた。

人物・エピソード

[編集]
  • 『帰マン』共演者では団と西田以外では三井恒と仲が良く、放送当時は4人で遊びに出かけていた[19]。また、『帰マン』DVDの制作時に伊吹隊長役の根上淳を訪れており、当時のことを語り合ううちに感極まって涙を流している(当初は郷秀樹役の候補の一人だった)。団と西田は、1992年に行われた京本政樹との対談の中で、池田の印象について団は「年上だけど、付き合うと弟みたいな感じ。その一方で物の見方が本当にまっすぐだった」と証言し、一方西田は「芝居の取り組み方が違っていて、いつでも自分なりに見せようと努力していた」と、それぞれ証言している[20]
  • 書籍『キカイダー賛歌』を伴とともに執筆・出版するため、挨拶を兼ねて石ノ森章太郎の自宅にインタビューに訪れた[21]。池田は原作を読まずに役作りを考えたため、鞍馬天狗をモチーフとした毅然としたヒーロー像を作り上げていった[22]。だが、後年になって原作を知り、原作のイチローと自分の役作りで出来上がったイチロー像があまりにもかけ離れていたことにショックと後悔の念があり、悩んでいたという[22]。それを聞いた石ノ森は「原作はあくまでも原作。テレビ版のキャラクターは役者の個性に合わせればいいんだから」と答え、思わず池田は涙してしまった[22]
  • 晩年、『帰マン』や『01』のファンから声をかけられると「気持ちが当時に戻ってシャキッとした自分になる。年をとったイチローや南隊員を見せたくない」という気持ちになると語っていた[2]

出演作品

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テレビドラマ

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映画

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  • ひばりの母恋いギター(1962年、東映) - 青年会C
  • 特別機動捜査隊(1963年、東映) - 赤沼修一
  • 白い熱球(1963年、東映) - 篠原栄一
  • 銃殺(1963年、東映) - 木島一等兵
  • 一万三千人の容疑者(1966年、東映) - 内原進一
  • 非行少女ヨーコ(1966年、東映) - 「ヘイゼル」のボーイ
  • 遊侠三代(1966年、東映) - 副官
  • 超高層のあけぼの(1969年、東映) - 大原課員
  • ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟(2006年、松竹) ※友情出演

ビデオ

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  • コスプレ戦士 キューティ・ナイト2 帝国の逆襲(1996年、笠倉出版社) - 甲斐田イチロー
  • キカイダーメモリアル 25年目の再会(1997年、東映ビデオ) - イチロー(ナレーション)
  • 怪異伝承 鬼殻村(2009年、WHDジャパン) - ナビゲーター

舞台

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  • 英國少年園 (2002年、新宿シアターサンモール) - ピーター・ヘイズリット
  • シンドバットの大冒険2003 (2003年、府中の森芸術劇場) - 魔神島の長老 ゼロウォン

CM

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ゲーム

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著書

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  • 伴大介 共著 編『キカイダー讃歌』東西企画(発行)、星雲社(発売)、1997年。ISBN 4795239649 

出典

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  1. ^ a b c d 日本タレント名鑑'73』VIPタイムズ社、1972年、15頁。 
  2. ^ a b c d e f g h i j 「追悼 池田駿介」『宇宙船 Vol.129』ホビージャパン〈HOBBY JAPAN MOOK〉、2010年7月1日、136-137頁。ISBN 978-4-7986-0085-7 
  3. ^ a b c d e 『福島民報』1971年6月8日付朝刊、7面。
  4. ^ a b 『読売新聞』1967年5月21日付朝刊、10面。
  5. ^ a b c d e f g h i キカイダー讃歌 1997, p. 77-79, ニューフェイスとしてデビュー
  6. ^ キカイダー讃歌 1997, p. 76-77, 第一楽章 真実イチロー
  7. ^ 東映の友 1962年4月号 45頁。
  8. ^ a b 「イチロー 正義を語る」『怪獣VOW』宝島社、1994年、76頁。ISBN 4-7966-0880-X 
  9. ^ a b キカイダー讃歌 1997, p. 79-81, 『帰ってきたウルトラマン』の頃
  10. ^ キカイダー讃歌 1997, p. 81-82, そしてイチローへ
  11. ^ 変身前も頼れるお兄さん『キカイダー01』池田駿介さん逝く”. zakzak. 2018年10月27日閲覧。
  12. ^ 「イチロー 正義を語る」『怪獣VOW』宝島社、1994年、74-75頁。ISBN 4-7966-0880-X 
  13. ^ 【訃報】「キカイダー01」の池田駿介さん、胃がんのため逝く 日テレNEWS24 2010年6月14日閲覧
  14. ^ 池田駿介氏死去 俳優 共同通信 47NEWS 2010年6月13日閲覧
  15. ^ 池田駿介さん雨の通夜。伴大介「日本の特撮作品の…」
  16. ^ 2010年、東映ヒーローMAX,8月号より
  17. ^ 池田駿介さん告別式…同期の小林稔侍「何とも言えない気持ち」- 日テレNEWS24、2010年6月16日より。
  18. ^ キカイダー讃歌 1997, p. 186
  19. ^ 『福島民友』1971年5月26日付朝刊、8面。
  20. ^ 京本政樹『京本政樹のHERO考証学』バンダイ〈B-CLUB SPECIAL〉、1992年7月1日、135頁。ISBN 489189234X 
  21. ^ キカイダー讃歌 1997, p. 158
  22. ^ a b c キカイダー讃歌 1997, p. 164-165

外部リンク

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