コンテンツにスキップ

「リビア王国」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: 差し戻し済み モバイル編集 モバイルウェブ編集
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
 
(6人の利用者による、間の7版が非表示)
1行目: 1行目:
{{出典の明記|date=2019年12月7日 (土) 10:30 (UTC)}}
{{出典の明記|date=2019年12月7日 (土) 10:30 (UTC)}}
{{基礎情報 過去の国
{{基礎情報 過去の国
|略名 = リビア
|略名 = リビア
|日本語国名 = リビア王国
|日本語国名 = リビア王国
|公式国名 = '''{{Rtl-lang|ar|المملكة الليبية}}'''<br />''{{ラテン翻字|ar|al-Mamlakah al-Lībiyyah}}''
|公式国名 = '''{{ar|المملكة الليبية}}'''
|建国時期 = [[1951年]]
|建国時期 = [[1951年]]
|亡国時期 = [[1969年]]
|亡国時期 = [[1969年]]
|先代1 = イギリス軍政下のリビア
|先代1 = キレナカ首長国
|先旗1 = Flag of the United Kingdom.svg
|先旗1 = Flag of Cyrenaica.svg
|先代2 = キレナカ首長国
|先代2 = イギリス軍政下のリビア
|先旗2 = Flag of Cyrenaica.svg
|先旗2 = Flag of the United Kingdom.svg
|先代3 = フランス軍政下のフェザーン
|先代3 = フランス軍政下のフェザーン
|先旗3 = Flag of Fezzan-Ghadames.svg
|先旗3 = Flag of Fezzan-Ghadames.svg
16行目: 16行目:
|国旗画像 = Flag of Libya (1951).svg
|国旗画像 = Flag of Libya (1951).svg
|国旗リンク =
|国旗リンク =
|国旗説明 =
|国旗幅 =
|国旗幅 =
|国旗縁 =
|国旗縁 =
|国章画像 = Coat of arms of the Kingdom of Libya.svg
|国章画像 = Coat of arms of the Kingdom of Libya.svg
|国章リンク =
|国章リンク =
|国章説明 =
|国章 = 95px
|国章幅 =
|標語 =
|標語 =
|国歌 = リビア、リビア、リビア
|国歌 = [[リビア、リビア、リビア|ليبيا ليبيا ليبيا]]{{ar icon}}<br>''リビア、リビア、リビア''<br>{{center|[[File:Libya, Libya, Libya instrumental.ogg]]}}
|国歌追記 =
|国歌追記 =
|位置画像 = LocationLibya.png
|位置画像 = Libya (Libya centered; orthographic projection).svg
|位置画像説明 =
|位置画像説明 = リビア王国の位置
|公用語 = [[アラビア語]]
|公用語 = [[アラビア語]]<br>[[ベルベル語]]<br>[[イタリア語]]
|首都 = [[トリポリ]]<br />[[ベンガジ]]<br />[[アルバイダ]]
|首都 = [[トリポリ]]<br />[[ベンガジ]]<br />[[アルバイダ]]
|宗教 = [[イスラム教]]
|元首等肩書 = [[リビアの元首一覧|国王]]
|元首等肩書 = [[リビアの元首一覧|国王]]
|元首等年代始1 = 1951年
|元首等年代始1 = 1951年
46行目: 45行目:
|人口値1 =
|人口値1 =
|変遷1 = 独立
|変遷1 = 独立
|変遷年月日1 = [[1951年]][[12月24日]]
|変遷年月日1 = 1951年12月24日
|変遷2 = 滅亡
|変遷2 = クーデター
|変遷年月日2 = [[1969年]][[9月1日]]
|変遷年月日2 = 1969年9月1日
|通貨 = [[:en:Libyan pound|リビア・ポンド]]
|通貨 = [[:en:Libyan pound|リビア・ポンド]]
|時間帯 =
|時間帯 =
59行目: 58行目:
|注記 =
|注記 =
}}
}}
'' 'リビア王国' '' [[1951]] [[イドリス 1 世 (リビア王) | イドリス 1 世]][[国王]] となり、独立した。 [[1963]] までは [[federal]] であり、そのの国名は "" "" United Kingdom of Libya "" ".
'''リビア王国'''(リビアおうこく、{{Rtl翻字併記|ar|'''المملكة الليبية'''|''al-Mamlakah al-Lībiyyah''}})は、かつて[[リビア]]に存在した王国。[[1951]]に[[イドリス1世 (リビア王)|イドリス1世]][[国王]]に戴いて独立した。[[1963]]までは[[連邦制]]であり、そのの国名は'''リビア連合王国'''であった。


[[キレナイカ]]で[[19世紀]]以降広く信仰されて勢力を強め、オスマン帝国やイタリアに対して抵抗を続けてきた[[サヌーシー教団]]のサヌーシー家を王家とする。[[トリポリタニア]]の[[トリポリ]]と、本拠地[[キレナイカ]]の[[ベンガジ]]の2都市を首都とする[[複都制]]を採っており、国王と政府機関は季節によって両首都を使い分けていた。
[[キレナイカ]]で[[19世紀]]以降広く信仰されて勢力を強め、オスマン帝国やイタリアに対して抵抗を続けてきた[[サヌーシー教団]]のサヌーシー家を王家とする。[[トリポリタニア]]の[[トリポリ]]と、本拠地[[キレナイカ]]の[[ベンガジ]]の2都市を首都とする[[複都制]]を採っており、国王と政府機関は季節によって両首都を使い分けていた。
72行目: 71行目:
[[1963年]]、リビアは連邦制を廃止し、国名も'''リビア王国'''へ変更する。これに伴い中央政府の権限を強化し、国民間の格差是正に努めた。また、親欧米路線の転換を行い、民族感情の暴発を抑えようと試みた。しかし、時既に遅く、国王・政府に対する国民の不満は頂点に達していた。
[[1963年]]、リビアは連邦制を廃止し、国名も'''リビア王国'''へ変更する。これに伴い中央政府の権限を強化し、国民間の格差是正に努めた。また、親欧米路線の転換を行い、民族感情の暴発を抑えようと試みた。しかし、時既に遅く、国王・政府に対する国民の不満は頂点に達していた。


[[1969年]][[9月1日]]、首都トリポリで[[ムアンマル・アル=カッザーフィー]]率いる若手将校たちのクーデターが勃発。[[トルコ]]で療養中の国王イドリース1世は追放され、王政が廃止された。同年11月に公布された暫定憲法により、カッザーフィーを議長とする革命評議会が最高統治機関として設けられ、国名は'''[[大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国|リビア・アラブ共和国]]'''と改められた。
[[1969年]][[9月1日]]、首都トリポリで[[ムアンマル・アル=カッザーフィー]]率いる若手将校たちのクーデターが勃発。[[トルコ]]で療養中の国王イドリース1世は追放され、王政が廃止された。同年11月に公布された暫定憲法により、カッザーフィーを議長とする革命評議会が最高統治機関として設けられ、国名は'''[[リビア・アラブ共和国]]'''と改められた。


{{Commonscat|Kingdom of Libya}}
{{Commonscat|Kingdom of Libya}}
84行目: 83行目:
[[Category:20世紀以降のイスラム世界史]]
[[Category:20世紀以降のイスラム世界史]]
[[Category:かつて存在したアフリカの君主国]]
[[Category:かつて存在したアフリカの君主国]]
[[Category:1951年に成立した国家・領域]]
[[Category:1969年に消滅した国家・領域]]

2024年2月18日 (日) 04:34時点における最新版

リビア王国
المملكة الليبية
キレナイカ首長国
イギリス軍政下のリビア
フランス軍政下のフェザーン
1951年 - 1969年 リビア・アラブ共和国
リビアの国旗 リビアの国章
国旗国章
国歌: ليبيا ليبيا ليبيا(アラビア語)
リビア、リビア、リビア
リビアの位置
リビア王国の位置
公用語 アラビア語
ベルベル語
イタリア語
宗教 イスラム教
首都 トリポリ
ベンガジ
アルバイダ
国王
1951年 - 1969年 イドリース1世
首相
1951年 - 1954年マフムード・アル=ムンタシル
1968年 - 1969年ワニス・アル=カッザーフィー
変遷
独立 1951年12月24日
クーデター1969年9月1日
通貨リビア・ポンド

リビア王国(リビアおうこく、アラビア語: المملكة الليبية‎, ラテン文字転写: al-Mamlakah al-Lībiyyah)は、かつてリビアに存在した王国。1951年イドリース1世国王に戴いて独立した。1963年までは連邦制であり、その間の国名はリビア連合王国であった。

キレナイカ19世紀以降広く信仰されて勢力を強め、オスマン帝国やイタリアに対して抵抗を続けてきたサヌーシー教団のサヌーシー家を王家とする。トリポリタニアトリポリと、本拠地キレナイカベンガジの2都市を首都とする複都制を採っており、国王と政府機関は季節によって両首都を使い分けていた。

歴史

[編集]

リビアは16世紀以降、オスマン帝国の支配下にあったが、1911年イタリア王国植民地となる。第二次世界大戦では、連合国イギリス)と枢軸国(イタリア、ナチス・ドイツ)の間で激しい戦闘が行われ(北アフリカ戦線)、多くの血が流された。イタリアの敗戦により、戦後は英仏の共同統治領となった。

1949年6月、後に国王となるイドリース・アッ=サヌーシーキレナイカの独立を宣言(キレナイカ首長国)。続いてトリポリタニアフェザーンとの統一交渉も開始されたが、国家体制のあり方で対立。経済の中心であるトリポリを擁するトリポリタニアは中央集権国家を志向したが、一方でキレナイカとフェザーンは連邦制を主張した。1951年、国連の決議により、最終的にリビアは3州の連合王国として独立し、イドリースはイドリース1世として王位に就いた。また、首都はトリポリとベンガジ複都制であり、外交や国防を担当する中央政府の下、3つの州政府に大幅な内政自治権が与えられた。

国王イドリース1世は親欧米路線を採り、基地を提供して経済援助を引き出した。また、リビアで石油採掘が始まると、莫大なオイルマネーを得るようになる。しかし、利益は王家とその周辺が吸収して国民全体に行き渡らず、トリポリタニアとキレナイカの地域対立も激しくなるなど、内政は不安定であった。更に、1956年に隣国エジプト第二次中東戦争が発生すると、リビアでも反欧米の汎アラブ主義が浸透し始め、親欧米の国王に対する民衆の不満は高まっていった。

1963年、リビアは連邦制を廃止し、国名もリビア王国へ変更する。これに伴い中央政府の権限を強化し、国民間の格差是正に努めた。また、親欧米路線の転換を行い、民族感情の暴発を抑えようと試みた。しかし、時既に遅く、国王・政府に対する国民の不満は頂点に達していた。

1969年9月1日、首都トリポリでムアンマル・アル=カッザーフィー率いる若手将校たちのクーデターが勃発。トルコで療養中の国王イドリース1世は追放され、王政が廃止された。同年11月に公布された暫定憲法により、カッザーフィーを議長とする革命評議会が最高統治機関として設けられ、国名はリビア・アラブ共和国と改められた。