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{{サッカー選手
{{サッカー選手
|名前=財前 宣之
| 名前 = 財前 宣之
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|愛称=ザイ・天才
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|カタカナ表記=ザイゼン ノブユキ
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|生日={{生年月日と年齢|1976|10|19}}
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| 身長 = 170cm<ref name="yamagata2010" />
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| 所属チーム名 =
|血液型=O型
| ポジション = [[ミッドフィールダー|MF]]
|所属チーム名=
| 背番号 =
|ポジション=[[ミッドフィールダー|MF]]
| 利き足 = 右足
|背番号=
| ユース年1 = 1989-1994 | ユースクラブ1 = {{Flagicon|JPN}} [[東京ヴェルディ1969|読売]]
|利き足=右足
| 年1 = 1995-1998 | クラブ1 = {{Flagicon|JPN}} [[東京ヴェルディ1969|ヴェルディ川崎]]
|CAP数=
| 出場1 = 0 | 得点1 = 0
|代表ゴール数=
| 年2 = 1996 | クラブ2 = → {{Flagicon|ESP}} [[CDログロニェス|ログロニェス]] (loan)
| 出場2 = 0 | 得点2 = 0
| 年3 = 1999 | クラブ3 = {{Flagicon|CRO}} [[HNKリエカ|リエカ]]
| 出場3 = 0 | 得点3 = 0
| 年4 = 1999-2005 | クラブ4 = {{Flagicon|JPN}} [[ベガルタ仙台]]
| 出場4 = 154 | 得点4 = 18
| 年5 = 2006-2009 | クラブ5 = {{Flagicon|JPN}} [[モンテディオ山形]]
| 出場5 = 105 | 得点5 = 5
| 年6 = 2010 | クラブ6 = {{Flagicon|THA}} [[ムアントン・ユナイテッドFC|ムアントン・ユナイテッド]]
| 出場6 = 11 | 得点6 = 0
| 年7 = 2011 | クラブ7 = {{Flagicon|THA}} [[ポリス・テロFC|BECテロ・サーサナ]]
| 出場7 = 10 | 得点7 = 0
|通算出場=280|通算得点=23
| 代表年1 = 1993 | 代表1 = {{Fbu|17|JPN|name=日本U-17}}
| 代表出場1 = 4 | 代表得点1 =0
| 代表成績更新日 =
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}}
}}
'''財前 宣之'''(ざいぜん のぶゆき、[[1976年]][[10月19日]] - )は、[[北海道]]出身の元[[プロサッカー選手]]・サッカー指導者。ポジションは[[ミッドフィールダー]]。実兄は元サッカー選手の[[財前恵一]]。
'''財前 宣之'''(ざいぜん のぶゆき、[[1976年]][[10月19日]] - )は、[[北海道]]出身の元[[プロサッカー選手]]・サッカー指導者。ポジションは[[ミッドフィールダー]]。実兄は元サッカー選手の[[財前恵一]]。


== 来歴・人物 ==
== 来歴・人物 ==
[[中田英寿]]も認めた才能の持ち主<ref>[http://www.sanspo.com/soccer/news/20180613/jle18061310000001-n1.html]</ref>(運動量なら中田、パスセンスなら財前と言われていた)だったが、度重なる[[膝]]の怪我に苦しんだ([[靭帯損傷|靭帯断裂]]を3度)。[[戸塚哲也]]、[[菊原志郎]]、[[山口貴之]]と続く「ヨミウリ天才少年」の系譜を受け継ぐ。[[1993年]]のU-17世界選手権[[U-17サッカー日本代表|U-17日本代表]]のチームメイトからは中田を含め4人が後の[[サッカー日本代表|日本代表]]に選出されたが、彼らはまず如何にして財前に認められるかを考えていたという。
[[中田英寿]]も認めた才能の持ち主<ref>[https://www.sanspo.com/article/20180613-OUKAKD5QQRNAVPNGL2YEFXMKXY/]</ref>(運動量なら中田、パスセンスなら財前と言われていた)だったが、度重なる[[膝]]の怪我に苦しんだ([[靭帯損傷|靭帯断裂]]を3度)。[[戸塚哲也]]、[[菊原志郎]]、[[山口貴之]]と続く「ヨミウリ天才少年」の系譜を受け継ぐ。[[1993年]]のU-17世界選手権[[U-17サッカー日本代表|U-17日本代表]]のチームメイトからは中田を含め4人が後の[[サッカー日本代表|日本代表]]に選出されたが、彼らはまず如何にして財前に認められるかを考えていたという。


中学時代から読売ユースに所属。読売への入団テストでは、当時の[[小見幸隆]]コーチをして「ボールをもった瞬間に合格」と言わしめ、サッカーファンは「まだ見ぬ財前」に期待を高めた。高校時代は[[東京実業高等学校|東京実業高校]]に通いながら読売ユースに所属し、[[1993年]]のU-17世界選手権では[[U-17サッカー日本代表|U-17日本代表]]の中心選手として、リーグ戦3試合全てでマンオブザマッチを獲得しベスト8進出に貢献、大会ベストイレブンにも選出され
中学時代から読売ユースに所属。読売への入団テストでは、当時の[[小見幸隆]]コーチをして「ボールをもった瞬間に合格」と言わしめ、サッカーファンは「まだ見ぬ財前」に期待を高めた。高校時代は[[東京実業高等学校|東京実業高校]]に通いながら読売ユースに所属し、[[1993年]]のU-17世界選手権では[[U-17サッカー日本代表|U-17日本代表]]の中心選手として、リーグ戦3試合全てでマンオブザマッチを獲得しベスト8進出に貢献、大会ベストイレブンにも選出され


[[1995年]]に[[東京ヴェルディ1969|ヴェルディ川崎]]のトップチームに昇格し、直後に[[イタリア]]、[[セリエA (サッカー)|セリエA]]の名門[[SSラツィオ]]へと留学。ラツィオではプリマヴェーラ(ユース)所属だったが、トップチームの紅白戦にも出場した。また、アジアから唯一世界選抜チームに選出され出場した。
[[1995年]]に[[東京ヴェルディ1969|ヴェルディ川崎]]のトップチームに昇格し、直後に[[イタリア]]、[[セリエA (サッカー)|セリエA]]の名門[[SSラツィオ]]へと留学。ラツィオではプリマヴェーラ(ユース)所属だったが、トップチームの紅白戦にも出場した。また、アジアから唯一世界選抜チームに選出され出場した。


[[1996年]]に[[スペイン]]1部リーグ、[[プリメーラ・ディビシオン|リーガ・エスパニョーラ]]の[[CDログロニェス|ログロニェス]]に移籍。しかし当時監督を務めていた[[ミゲル・アンヘル・ロティーナ]]がリクエストしたのは[[フォワード (サッカー)|フォワード]]であり<ref>{{Cite web|和書|date=2020-05-18 |url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/wfootball/2020/05/18/post_94/?page=3 |title=中田英寿を上回る天才に起きた悲劇。リーガに「ぶっとんだ自信」で挑んだ (3/5) |publisher=web Sportiva |accessdate=2020-08-25}}</ref>、同じ日本人の[[三浦知良]]だった<ref>{{Cite web|和書|date=2017-05-05 |url=https://blogola.jp/p/71217 |title=[東京V]ロティーナ監督、リーガで指揮を執っていた96年に三浦知良と「契約する可能性があった」ことを明かす |publisher=BLOGOLA |accessdate=2020-08-25}}</ref>。スペイン入りの前に痛めていた膝前十字靭帯を再度痛めたことにより、早期退団を余儀なくされた<ref>{{Cite web|和書|date=2020-05-18 |url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/wfootball/2020/05/18/post_94/?page=4 |title=中田英寿を上回る天才に起きた悲劇。リーガに「ぶっとんだ自信」で挑んだ (4/5) |publisher=web Sportiva |accessdate=2020-08-25}}</ref>。
[[1996年]]に[[スペイン]]1部リーグ、[[リーガ・エスパニョーラ]]の[[CDログロニェス|ログロニェス]]に移籍。監督にもその実力を認められていたが(当時チームは下位に低迷していたが、監督に「うちには財前がいる。彼の怪我が治れば大丈夫」と言わしめていた)、リーグ戦への出場を前にして、靭帯断裂のため帰国を余儀なくされる(もし怪我がなければスペイン1部リーグ初の日本人選手となっていた可能性が高い)。


帰国から約1年後にV川崎にて公式戦初出場。[[クロアチア]]部リーグ、[[プルヴァHNL|1.HNL]]の[[HNKリエカ|リエカ]]を経て、[[清水秀彦]]監督の誘いに応じて[[1999年]]に[[ベガルタ仙台]]入団。ここでクラブの中心選手として存在感を発揮。[[2001年]]J2最終戦、[[京都サンガF.C.|京都パープルサンガ]]戦で試合終了直前にチームを初のJ1昇格に導く決勝ゴールを挙げた。
帰国から約1年後にV川崎にて公式戦初出場。[[クロアチア]]1部リーグ、[[プルヴァHNL|1.HNL]]の[[HNKリエカ|リエカ]]を経て、[[清水秀彦]]監督の誘いに応じて[[1999年]]に[[ベガルタ仙台]]入団。ここでクラブの中心選手として存在感を発揮。[[2001年]][[2001年J2最終節|J2最終戦]]、[[京都サンガF.C.|京都パープルサンガ]]戦で試合終了直前にチームを初のJ1昇格に導く決勝ゴールを挙げた。


[[2005年]]シーズン終了後、仙台から戦力外通告を受け退団。この時、財前の戦力外撤回を求める仙台サポーターの署名が1万人以上集まった。
[[2005年]]シーズン終了後、仙台から戦力外通告を受け退団。この時、財前の戦力外撤回を求める仙台サポーターの署名が1万人以上集まった。
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2012年1月19日、本人のブログ上で現役引退が発表され、引退後は古巣・仙台の育成コーチとしてサッカースクール指導や中学生以下のスカウトを担当していた<ref>[http://www.zaizenfootballschool.com/03coach.html コーチ] 財前サッカースクール</ref>。
2012年1月19日、本人のブログ上で現役引退が発表され、引退後は古巣・仙台の育成コーチとしてサッカースクール指導や中学生以下のスカウトを担当していた<ref>[http://www.zaizenfootballschool.com/03coach.html コーチ] 財前サッカースクール</ref>。


2016年4月、[[仙台市]]内にサッカースクールを開設した<ref>[http://ameblo.jp/incontro-10/entry-12135098758.html ★お知らせ★] ZAIのブログ 2016年3月3日</ref><ref>[http://www.sanspo.com/soccer/news/20180613/jle18061310000001-n3.html]</ref>。
2016年4月、[[仙台市]]内にサッカースクールを開設した<ref>[https://ameblo.jp/incontro-10/entry-12135098758.html ★お知らせ★] ZAIのブログ 2016年3月3日</ref><ref>[https://www.sanspo.com/article/20180613-OUKAKD5QQRNAVPNGL2YEFXMKXY/3/]</ref>。


== 所属クラブ ==
== 所属クラブ ==
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* 1992年 - 1994年 読売ユース
* 1992年 - 1994年 読売ユース
;プロ経歴
;プロ経歴
* 1995年 - 1998年 {{flagicon|JPN}} [[東京ヴェルディ1969|ヴェルディ川崎]]
* 1995年 - 1998年 [[東京ヴェルディ1969|ヴェルディ川崎]]
** 1995年途中 - 1996年途中 {{flagicon|ITA}} [[SSラツィオ|ラツィオ]]・プリマヴェーラ ([[期限付き移籍]]、留学)
** 1995年途中 - 1996年途中 [[SSラツィオ|ラツィオ]]・プリマヴェーラ ([[期限付き移籍]]、留学)
** 1996年途中 {{flagicon|ESP}} [[CDログロニェス]] (期限付き移籍)
** 1996年途中 [[CDログロニェス]] (期限付き移籍)
* 1999年 {{flagicon|CRO}} [[HNKリエカ|NKリエカ]]
* 1999年 [[HNKリエカ|NKリエカ]]
* 1999年途中 - 2005年 {{flagicon|JPN}} [[ベガルタ仙台]]
* 1999年途中 - 2005年 [[ベガルタ仙台]]
* 2006年 - 2009年 {{flagicon|JPN}} [[モンテディオ山形]]
* 2006年 - 2009年 [[モンテディオ山形]]
* 2010年 {{flagicon|THA}} [[ムアントン・ユナイテッドFC]]
* 2010年 [[ムアントン・ユナイテッドFC]]
* 2011年 {{flagicon|THA}} [[BECテロ・サーサナFC]]
* 2011年 [[BECテロ・サーサナFC]]


== 背番号10 ==
== 背番号10 ==
{{出典の明記|section=1|date=2021-01}}
上記のプレースタイルから1993年のU-17世界選手権で背番号10を背負っていた財前は、Jリーグでは仙台移籍2年目の[[2000年]]に初めて10番を背負い、以後チームの顔として2005年まで背負い続けた。Jリーグが[[1997年]]の固定背番号制を導入以後、同一チームで10番を背負う期間は[[澤登正朗]]([[清水エスパルス]]・1997年-2005年)、[[藤田俊哉]]([[ジュビロ磐田]]・[[1997年]]-[[2003年]][[8月]]、[[2004年]]-2005年[[6月]]…[[FCユトレヒト]]移籍中は空き番)に次いで長かった。
上記のプレースタイルから1993年のU-17世界選手権で背番号10を背負っていた財前は、Jリーグでは仙台移籍2年目の[[2000年]]に初めて10番を背負い、以後チームの顔として2005年まで背負い続けた。Jリーグが[[1997年]]の固定背番号制を導入以後、同一チームで10番を背負う期間は[[澤登正朗]]([[清水エスパルス]]・1997年-2005年)、[[藤田俊哉]]([[ジュビロ磐田]]・[[1997年]]-[[2003年]][[8月]]、[[2004年]]-2005年[[6月]]…[[FCユトレヒト]]移籍中は空き番)に次いで長かった。


山形へ移籍した[[2006年]]は、入団当時既に27番まで埋まっていたので、背番号は事務的に充てられたものと思われる28番だった。そして、山形移籍2年目の[[2007年]]、[[本橋卓巳]]から譲られる形で再び背番号10が与えられた。本橋はベテラン・[[永井篤志]]の仙台移籍で空いた8番を背負うこととなったが、奇しくも仙台時代の2000年、財前に10番を譲った[[中島浩司 (サッカー選手)|中島浩司]](元・[[サンフレッチェ広島]])がベテラン・[[越後和男]]の引退で空いた8番を背負ったのと似たケースとなった。<br/>
山形へ移籍した[[2006年]]は、入団当時既に27番まで埋まっていたので、背番号は事務的に充てられたものと思われる28番だった。そして、山形移籍2年目の[[2007年]]、[[本橋卓巳]]から譲られる形で再び背番号10が与えられた。本橋はベテラン・[[永井篤志]]の仙台移籍で空いた8番を背負うこととなったが、仙台時代の2000年、財前に10番を譲った[[中島浩司 (サッカー選手)|中島浩司]]がベテラン・[[越後和男]]の引退で空いた8番を背負ったのと似たケースとなった。
2010年はタイの[[ムアントン・ユナイテッドFC]]に移籍したが、背番号は28「2+8=10」という、奇しくも山形入団初年度と同じ事態が起こった。
2010年はタイの[[ムアントン・ユナイテッドFC]]に移籍したが、背番号は28「2+8=10」という、山形入団初年度と同じ事態が起こった。


== エピソード ==
== エピソード ==
{{出典の明記|section=1|date=2021-01}}
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2021-01}}
* U17代表コーチの小見によれば、練習の手本は財前が示し、当時のチームメイト・[[中田英寿]]はそれを体育座りで真剣に見ていたという。さらに中田は「ザイ(財前)とサッカーをやっているときが一番楽しかった」と発言しており、同じく[[松田直樹]]もワールドユース時代「初めにザイに認められるか否かで、代表における立場が決まった」とも語っている。
* U17代表コーチの小見によれば、練習の手本は財前が示し、当時のチームメイト・[[中田英寿]]はそれを体育座りで真剣に見ていたという。さらに中田は「ザイ(財前)とサッカーをやっているときが一番楽しかった」と発言しており、同じく[[松田直樹]]もワールドユース時代「初めにザイに認められるか否かで、代表における立場が決まった」とも語っている。
* 1996年に短期留学していた[[SSラツィオ]]時代には元[[サッカーイタリア代表|イタリア代表]]の[[アレッサンドロ・ネスタ]]が在籍しており、練習中、財前は当時すでにラツィオのレギュラーで、イタリア代表としてもEURO96のメンバーに選ばれていたネスタにほとんどボールを触らせず、他のラツィオ選手たちの度胆を抜いた。2002年FIFAワールドカップでイタリア代表が仙台でキャンプを行い、ベガルタ仙台と練習試合を行った際、ネスタ自ら財前に握手を求めに行った。ちなみに財前は怪我のため、この練習試合には出場していなかった。
* 1996年に短期留学していた[[SSラツィオ]]時代には元[[サッカーイタリア代表|イタリア代表]]の[[アレッサンドロ・ネスタ]]が在籍しており、練習中、財前は当時すでにラツィオのレギュラーで、イタリア代表としてもEURO96のメンバーに選ばれていたネスタにほとんどボールを触らせず、他のラツィオ選手たちの度胆を抜いた。2002年FIFAワールドカップでイタリア代表が仙台でキャンプを行い、ベガルタ仙台と練習試合を行った際、ネスタ自ら財前に握手を求めに行った。ちなみに財前は怪我のため、この練習試合には出場していなかった。
* [[2007年]][[7月21日]]の[[みちのくダービー]]では先制点をアシストをする活躍を見せた。同年10月10日のみちのくダービーではPKながら古巣・仙台から初得点を挙げた。
* [[2007年]][[7月21日]]の[[みちのくダービー]]では先制点をアシストをする活躍を見せた。同年10月10日のみちのくダービーではPKながら古巣・仙台から初得点を挙げた。
* モンテディオ山形の[[木藤健太]]、[[鈴木亮平 (サッカー選手)|鈴木亮平]]、[[渡辺匠]](現在は退団)らと仲が良く、何度も食事に行く仲である。特に木藤とは仲が良く、自身の[[ブログ]]で彼女とまで紹介している。
* モンテディオ山形の[[木藤健太]]、[[渡辺匠]]らと仲が良く、何度も食事に行く仲である。特に木藤とは仲が良く、自身の[[ブログ]]で彼女とまで紹介している。
* [[キャプテン翼]]に登場する「弓倉宣之」は、財前がモデルといわれる。
* [[キャプテン翼]]に登場する「弓倉宣之」は、財前がモデルといわれる。
* 山形に[[小林伸二]]監督が就任してからは財前は[[フォワード_(サッカー)|FW(主にセカンドトップ)]]での起用が増えていたが、自身のブログでMFとしてプレーがしたい旨の事を思いとして書いていた。チームがJ1へ昇格後は「干されてもいいから左サイドで勝負させて欲しい」と首脳陣へ直訴し、小林監督は財前が得意としている[[ミッドフィールダー|トップ下]]で起用。その監督の起用に応えるかの様に途中出場ではあるものの、山形の切り札としてアシストを量産する事となった。
* 山形に[[小林伸二]]監督が就任してからは財前は[[フォワード (サッカー)|FW(主にセカンドトップ)]]での起用が増えていたが、自身のブログでMFとしてプレーがしたい旨の事を思いとして書いていた。チームがJ1へ昇格後は「干されてもいいから左サイドで勝負させて欲しい」と首脳陣へ直訴し、小林監督は財前が得意としている[[ミッドフィールダー|トップ下]]で起用。その監督の起用に応えるかの様に途中出場ではあるものの、山形の切り札としてアシストを量産する事となった。
* 仙台時代の応援歌の原曲は[[ゴダイゴ]]の『[[ビューティフル・ネーム]]』、山形での応援歌の原曲は[[GOING STEADY]]の『愛しておくれ』だった。
* 仙台時代の応援歌の原曲は[[ゴダイゴ]]の『[[ビューティフル・ネーム]]』、山形での応援歌の原曲は[[GOING STEADY]]の『愛しておくれ』だった。
* タイのリーグに在籍したが、[[コリアンダー|パクチー]]が苦手である。
* タイのリーグに在籍したが、[[コリアンダー|パクチー]]が苦手である。
*[[プリメーラ・ディビシオン|リーガ・エスパニョーラ]]に在籍した日本人第一号であるが、実際にスペイン([[セグンダ・ディビシオン]])でプレーした日本人第一号は安永聡太郎である。<ref>{{Cite web|和書|title=【今日の誕生日】4月20日/日本人のスペイン進出の先駆け――安永聡太郎|url=https://www.legendsstadium.com/news/j-league/22688/|website=www.legendsstadium.com|accessdate=2021-10-27|language=ja|first=LEGENDS|last=STADIUM}}</ref>


== 個人成績 ==
== 個人成績 ==
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{{サッカー選手国内成績表 th|日本|all}}
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|-
|-
|[[1996年のJリーグ|1996]]||rowspan="3"|V川崎||-||rowspan="3"|J||0||0||0||0||0||0||0||0
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119行目: 138行目:
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|2010||[[ムアントン・ユナイテッドFC|ムアントン・ユナイテッド]]||28||rowspan=2|[[タイ・プレミアリーグ|タイ・プレミア]]||11||0||colspan="2"|-||colspan="2"|-||11||0
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|2011||[[BECテロ・サーサナFC|テロ・サーサナ]]||37||10||0||colspan="2"|-||colspan="2"|-||10||0
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|}
|}
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* Jリーグ初得点 - 1999年[[8月21日]] [[大宮アルディージャ]]戦
* Jリーグ初得点 - 1999年[[8月21日]] [[大宮アルディージャ]]戦


=== 代表歴 ===
== 代表歴 ==
* 1992年U-16日本代表
* 1992年U-16日本代表
* 1993年U-17日本代表
* 1993年U-17日本代表
144行目: 163行目:
==脚注==
==脚注==
{{Reflist}}
{{Reflist}}

==関連項目==
*[[東京ヴェルディ1969の選手一覧]]
*[[ベガルタ仙台の選手一覧]]
*[[モンテディオ山形の選手一覧]]
*[[日本国外のリーグに所属する日本人サッカー選手一覧]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* {{Sports links}}
* [http://ameblo.jp/incontro-10/ ZAIのブログ]
* {{Ameba ブログ|incontro-10|ZAIのブログ}}
* [http://blog.livedoor.jp/monte28zai/ zai's blog] - (旧ブログ)
* [http://blog.livedoor.jp/monte28zai/ zai's blog] - (旧ブログ)
* [http://www.zaizenfootballschool.com/ 財前サッカースクール]
* [http://www.zaizenfootballschool.com/ 財前サッカースクール]
* {{FIFA player|195074}}{{en icon}}


{{1993 FIFA U-17世界選手権 日本代表}}
{{1993 FIFA U-17世界選手権 日本代表}}


{{DEFAULTSORT:さいせん のふゆき}}
{{デフォルトソート:さいせん のふゆき}}
[[Category:日本のサッカー選手]]
[[Category:日本のサッカー選手]]
[[Category:東京ヴェルディ1969の選手]]
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[[Category:タイ・プレミアリーグの日本人選手]]
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[[Category:日本のサッカー指導者]]
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[[Category:日本のフットゴルフ選手]]
[[Category:東京実業高等学校出身の人物]]
[[Category:北海道出身の人物]]
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[[Category:1976年生]]
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財前 宣之
名前
愛称 ザイ・天才
カタカナ ザイゼン ノブユキ
ラテン文字 ZAIZEN Nobuyuki
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1976-10-19) 1976年10月19日(48歳)
出身地 北海道室蘭市
身長 170cm[1]
体重 66kg[1]
選手情報
ポジション MF
利き足 右足
ユース
1989-1994 日本の旗 読売
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1995-1998 日本の旗 ヴェルディ川崎 0 (0)
1996 スペインの旗 ログロニェス (loan) 0 (0)
1999 クロアチアの旗 リエカ 0 (0)
1999-2005 日本の旗 ベガルタ仙台 154 (18)
2006-2009 日本の旗 モンテディオ山形 105 (5)
2010 タイ王国の旗 ムアントン・ユナイテッド 11 (0)
2011 タイ王国の旗 BECテロ・サーサナ 10 (0)
通算 280 (23)
代表歴
1993  日本U-17 4 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

財前 宣之(ざいぜん のぶゆき、1976年10月19日 - )は、北海道出身の元プロサッカー選手・サッカー指導者。ポジションはミッドフィールダー。実兄は元サッカー選手の財前恵一

来歴・人物

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中田英寿も認めた才能の持ち主[2](運動量なら中田、パスセンスなら財前と言われていた)だったが、度重なるの怪我に苦しんだ(靭帯断裂を3度)。戸塚哲也菊原志郎山口貴之と続く「ヨミウリ天才少年」の系譜を受け継ぐ。1993年のU-17世界選手権U-17日本代表のチームメイトからは中田を含め4人が後の日本代表に選出されたが、彼らはまず如何にして財前に認められるかを考えていたという。

中学時代から読売ユースに所属。読売への入団テストでは、当時の小見幸隆コーチをして「ボールをもった瞬間に合格」と言わしめ、サッカーファンは「まだ見ぬ財前」に期待を高めた。高校時代は東京実業高校に通いながら読売ユースに所属し、1993年のU-17世界選手権ではU-17日本代表の中心選手として、リーグ戦3試合全てでマンオブザマッチを獲得しベスト8進出に貢献、大会ベストイレブンにも選出された。

1995年ヴェルディ川崎のトップチームに昇格し、直後にイタリアセリエAの名門SSラツィオへと留学。ラツィオではプリマヴェーラ(ユース)所属だったが、トップチームの紅白戦にも出場した。また、アジアから唯一世界選抜チームに選出され出場した。

1996年スペイン1部リーグ、リーガ・エスパニョーラログロニェスに移籍。しかし当時監督を務めていたミゲル・アンヘル・ロティーナがリクエストしたのはフォワードであり[3]、同じ日本人の三浦知良だった[4]。スペイン入りの前に痛めていた膝前十字靭帯を再度痛めたことにより、早期退団を余儀なくされた[5]

帰国から約1年後にV川崎にて公式戦初出場。クロアチア1部リーグ、1.HNLリエカを経て、清水秀彦監督の誘いに応じて1999年ベガルタ仙台入団。ここでクラブの中心選手として存在感を発揮。2001年J2最終戦京都パープルサンガ戦で試合終了直前にチームを初のJ1昇格に導く決勝ゴールを挙げた。

2005年シーズン終了後、仙台から戦力外通告を受け退団。この時、財前の戦力外撤回を求める仙台サポーターの署名が1万人以上集まった。

2006年からは同じ東北をホームとするモンテディオ山形に移籍し、4年間プレーしたが2009年に戦力外通告を受け、同年シーズン終了を以って退団。

2009年のシーズン終了直後にタイ・プレミアリーグに所属するムアントン・ユナイテッドFCから獲得を前提とした練習参加のオファーが届いた。財前はすぐにタイへ飛び、プレ・シーズンマッチにもトップ下で出場し存在感を発揮、ムアントン・ユナイテッドへの正式加入が決まった[1]

2011年シーズンより同リーグに所属するBECテロ・サーサナFCへ移籍した。

2012年1月19日、本人のブログ上で現役引退が発表され、引退後は古巣・仙台の育成コーチとしてサッカースクール指導や中学生以下のスカウトを担当していた[6]

2016年4月、仙台市内にサッカースクールを開設した[7][8]

所属クラブ

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ユース経歴
プロ経歴

背番号10

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上記のプレースタイルから1993年のU-17世界選手権で背番号10を背負っていた財前は、Jリーグでは仙台移籍2年目の2000年に初めて10番を背負い、以後チームの顔として2005年まで背負い続けた。Jリーグが1997年の固定背番号制を導入以後、同一チームで10番を背負う期間は澤登正朗清水エスパルス・1997年-2005年)、藤田俊哉ジュビロ磐田1997年-2003年8月2004年-2005年6月FCユトレヒト移籍中は空き番)に次いで長かった。

山形へ移籍した2006年は、入団当時既に27番まで埋まっていたので、背番号は事務的に充てられたものと思われる28番だった。そして、山形移籍2年目の2007年本橋卓巳から譲られる形で再び背番号10が与えられた。本橋はベテラン・永井篤志の仙台移籍で空いた8番を背負うこととなったが、仙台時代の2000年、財前に10番を譲った中島浩司がベテラン・越後和男の引退で空いた8番を背負ったのと似たケースとなった。 2010年はタイのムアントン・ユナイテッドFCに移籍したが、背番号は28「2+8=10」という、山形入団初年度と同じ事態が起こった。

エピソード

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  • U17代表コーチの小見によれば、練習の手本は財前が示し、当時のチームメイト・中田英寿はそれを体育座りで真剣に見ていたという。さらに中田は「ザイ(財前)とサッカーをやっているときが一番楽しかった」と発言しており、同じく松田直樹もワールドユース時代「初めにザイに認められるか否かで、代表における立場が決まった」とも語っている。
  • 1996年に短期留学していたSSラツィオ時代には元イタリア代表アレッサンドロ・ネスタが在籍しており、練習中、財前は当時すでにラツィオのレギュラーで、イタリア代表としてもEURO96のメンバーに選ばれていたネスタにほとんどボールを触らせず、他のラツィオ選手たちの度胆を抜いた。2002年FIFAワールドカップでイタリア代表が仙台でキャンプを行い、ベガルタ仙台と練習試合を行った際、ネスタ自ら財前に握手を求めに行った。ちなみに財前は怪我のため、この練習試合には出場していなかった。
  • 2007年7月21日みちのくダービーでは先制点をアシストをする活躍を見せた。同年10月10日のみちのくダービーではPKながら古巣・仙台から初得点を挙げた。
  • モンテディオ山形の木藤健太渡辺匠らと仲が良く、何度も食事に行く仲である。特に木藤とは仲が良く、自身のブログで彼女とまで紹介している。
  • キャプテン翼に登場する「弓倉宣之」は、財前がモデルといわれる。
  • 山形に小林伸二監督が就任してからは財前はFW(主にセカンドトップ)での起用が増えていたが、自身のブログでMFとしてプレーがしたい旨の事を思いとして書いていた。チームがJ1へ昇格後は「干されてもいいから左サイドで勝負させて欲しい」と首脳陣へ直訴し、小林監督は財前が得意としているトップ下で起用。その監督の起用に応えるかの様に途中出場ではあるものの、山形の切り札としてアシストを量産する事となった。
  • 仙台時代の応援歌の原曲はゴダイゴの『ビューティフル・ネーム』、山形での応援歌の原曲はGOING STEADYの『愛しておくれ』だった。
  • タイのリーグに在籍したが、パクチーが苦手である。
  • リーガ・エスパニョーラに在籍した日本人第一号であるが、実際にスペイン(セグンダ・ディビシオン)でプレーした日本人第一号は安永聡太郎である。[9]

個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1995 V川崎 - J 0 0 - 0 0 0 0
スペイン リーグ戦 国王杯オープン杯 期間通算
1996-97 ログロニェス - プリメーラ 0 0 - - 0 0
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1997 V川崎 42 J 0 0 0 0 0 0 0 0
1998 13 0 0 4 0 0 0 4 0
クロアチア リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
1998-99 リエカ - 1.HNL 0 0 - - 0 0
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1999 仙台 29 J2 6 1 0 0 0 0 6 1
2000 10 20 2 0 0 1 0 21 2
2001 39 7 1 0 3 0 43 7
2002 J1 18 0 6 0 2 1 26 1
2003 8 0 4 1 1 0 13 1
2004 J2 36 5 - 0 0 36 5
2005 27 3 - 1 0 28 3
2006 山形 28 35 4 - 0 0 35 4
2007 10 38 1 - 2 0 40 1
2008 21 0 - 0 0 21 0
2009 J1 11 0 4 0 2 0 17 0
タイ リーグ戦 リーグ杯FA杯 期間通算
2010 ムアントン・ユナイテッド 28 プレミア 11 0 - - 11 0
2011 テロ・サーサナ 37 10 0 - - 10 0
通算 日本 J1 37 0 18 1 5 1 60 2
日本 J2 222 23 1 0 7 0 230 23
スペイン プリメーラ 0 0 - - 0 0
クロアチア 1.HNL 0 0 - - 0 0
タイ プレミア 21 0 - - 21 0
総通算 280 23 19 1 12 1 311 25

代表歴

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  • 1992年U-16日本代表
  • 1993年U-17日本代表
1993年 FIFA U-17選手権ベスト8、ベストイレブン選出 (日本選手として唯一)
  • 1994年U-19日本代表

指導歴

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  • 2012年 - 2016年3月 ベガルタ仙台 スクールコーチ

脚注

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関連項目

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外部リンク

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