赤嶺賢勇
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赤嶺 賢勇(あかみね けんゆう、1958年5月20日 - )は、沖縄県出身の元プロ野球選手(投手)。
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 沖縄県那覇市 |
生年月日 | 1958年5月20日(66歳) |
身長 体重 |
175 cm 68 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1976年 ドラフト2位 |
初出場 | 1979年10月21日 |
最終出場 | 1981年8月12日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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来歴・人物
編集沖縄・豊見城高時代には、栽弘義監督の指導を受けて1975年の選抜大会に出場し、初戦でその夏に甲子園優勝をとげた習志野高校を完封、準々決勝では、結果的に準優勝だった東海大相模高校に対して9回裏2死無走者(2死目は原辰徳から見逃し三振を奪った)までリードを保ち、そのあと津末英明からの被安打をきっかけに敗北したが、この大会の活躍で全国的に注目を浴びる投手となった[1]。高校3年次には、春夏連続甲子園出場を達成し、春は初戦敗退したが、夏は準々決勝で1学年下の小松辰雄(星稜高)と投げあい、1点差で敗退した[1]。高校時代はナックルの賢と言われていた。
早稲田大学への進学希望を表明した時期もあったが、1976年ドラフト2位で巨人入団。右の本格派として期待され、1979年オフの長嶋茂雄監督による「地獄の伊東キャンプ」にも参加する。しかし右肩の故障もあり、思うような活躍はできず1983年限りで現役引退[1]。引退後は東京佐川急便に入社し、1990年から妻の出身地である山形県の佐川急便山形に勤務[1]。長男も日大山形高の外野手として甲子園に出場した。
詳細情報
編集年度別投手成績
編集年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1979 | 巨人 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 11 | 2.0 | 2 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 4.50 | 3.00 |
1981 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 23 | 5.0 | 5 | 0 | 3 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 2 | 2 | 3.60 | 1.60 | |
通算:2年 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 34 | 7.0 | 7 | 0 | 7 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 3 | 3 | 3.86 | 2.00 |
記録
編集背番号
編集- 40 (1977年 - 1983年)
脚注
編集関連項目
編集外部リンク
編集- 個人年度別成績 赤嶺賢勇 - NPB.jp 日本野球機構